花より男子2(テレビドラマ)7-9回 / 11回

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わたしの場合ドラマ界のことに詳しくないのと、さほどDEEPに関心があるわけではないせいか、ドラマを見ながら誰の演出だ、誰の脚本だと考えたことは、あまりなかった。なのに、今度という今度は「誰? これの脚本書いたの?」と思わずTVブロスをひっくり返して確認してしまった。

第9回のラスト、一体何回目の「さよなら」宣言となるのか、ともかく雨の中傘も差さずつくしは「皆の幸福のため」に道明寺に別れを告げる。道明寺は抵抗し「お前は俺をひとりの男として見たことがあるのか?」と激しく問う。置かれている状況や立場や肩書きなどを全て取っ払って、純粋に一個の人間として、一人の男として俺の姿や心を見たことがあるのか? と、問うたのだ。

問いの正解は何であろうか? 「ある」である。いや、「ある」のはずであるし、そうでなくてはいけない。つくしは、道明寺家の財力に目がくらんだわけではまったくないのだし。胸が切なく千切れそうになるほどに、「ある」であるはずで、だいたいそんな問いを発せられたこと自体が怒りの対象になるくらいに「ある」に決まっていることである。が、見ていて「あれ? そういわれてみればどうなんだっけ?」と瞬間分らなくなった。本来、この問いが実現するはずだった効果は、見ている人間(視聴者)に、自分が気づかなかった視点を発見させたり、あるいは、すれ違う二人の切なさをバージョンアップさせるためだ。

が実際に起きた効果は…? 特に何もなかった、と言わざるを得ない。

この出来事の後、使用人頭のタマさんが傘を差して現れ、土砂降りの中言うのである。「つくしのバカバカバカ。(あんなに好きなのに)嘘までついて、バカバカ」と。
その時わたしの頭にエコーしたのは「へたへたへた。脚本家のへた。(寝ぼけた脚本書きやがって)へたへた」であった。

さて、なぜこのようなつまらない寝ぼけた展開になったのか、考察を加えていこう。

  • 道明寺家は本来桁外れの大金持ちなのに、ここではしょぼく描かれすぎている。したがって司の威張り(キャラクター)も無意味化
  • 道明寺財閥が崩壊しかけているのは、つくしのせいではない。であるからつくしの切り出す別れは無意味である
  • せっかくのしげるの友情と苦労が、これでは無になってしまっている

考察もへちまもなく、以上が理由だ。
道明寺家がどれくらい桁外れの金持ちかといえば、少なく見積もってもトヨタレベル。もしくはトヨタ×2~10くらいには金持ちである。というかロックフェラー財閥とかああいう感じ。いや、もっとかな。まー金持ちの名前なんか知らないけど。昨日ケーブルテレビ見てたら「セレブのお嬢様」特集をやっていてVarginとか色々出ていて、あの一角には少なくとも入っている感じ。ユダヤの大財閥にも拮抗できるかできないかってあたりだ。

であるから、何が起きてもそうそう「崩壊」なんかするはずがない。財が財を生むのがこの世界の仕組みなのだ。でもって滋の家である大河原家は、石油関係ということで、石油の何をやっているのか謎だが、石油は文明の根幹部分であり、油田開発や探鉱、生産、輸送、精製、元売りまで一貫してやっているスゴイところなら(今の日本には存在しないタイプの企業かも)是非とも仲良くしておきたかったのはしておきたかったわけで、合併できなかったのは痛いのは痛い。残念ながら、原作においても、さすがに石油の採掘だの利権だのといった油臭い話には突っ込んでいないので、わたしにも詳しいことは分らない。けれど、少女漫画なのだからそれで当然いいし、そんなものよりも遥かに大事なもののために生きているのが「少女」であるから、そんなのは追求しなくてもいいのである。が、せっかく色んな人間(れっきとした社会人であり大人であるスタッフ達)が関わるテレビドラマなのだから、ディテールをもっと固めてもよかった、とは思う。

ともかくそれくらいの大金持ちだからこそ、いくら乱暴狼藉を働いても許されていた道明寺司で、結局それが不幸の元だった。それがつくしと出会い徐々に成長するのだが、それは単純な上向き志向と考え方の固定化に向かう「いわゆる成長」やいわゆる「大人」ではないから、「金持ちの指導者」のための帝王学のような人格論めいたところなどへ、ぜったいにいかないのが痛快だった、はずなのだ。

それがどういうわけだが、すっかり「企業ドラマ」になっていて、そんなのは他でやってほしいものである。

それと気になるのは、企業が崩壊するといかに一般家庭が不幸になるか、ということが繰り返し強調されている点である。
これではまるで、多少給料が安かったり、ただ残業を強いられたり、偽装請負などの違法行為があっても、それで企業が倒産しないなら有難いと思え、とでもいわんばかりなのだ。原作にはないあの謎のキャラ、「ケン内田」も、そのメッセージの使者として現れた、としか思えない。

そんな裏メッセージ(というかほぼ表のメッセージ)を潜みこまそうとするから、どんどん脚本がガタガタに崩れるのではないか?

わたしとしては、企業や大金持ちを悪者と決め付ける気はない。もとよりこの社会に平等はないのだから仕方がない。(ただし「平等」と「対等」は違う。いかなる立場も超え、人間はみな対等である。)それに、企業が倒産したら、困るのは困る。それでなくても金持ちさんには金持ちさんの苦労があるだろうし、その点が、「お前は俺をひとりの男として見たことがあるのか?」という言葉になって現れたのだ、と解釈できる。

それでも、残念だと思うことは多い。
第9回で、つくしは親友の優紀の家に泊まらせてもらう。その時立ち聞きした、道明寺財閥の事業縮小に伴って、優紀の父親の会社が余波をくらい倒産かリストラされる、という会話。これと同じ状況なら原作にもあった。けれど、原作であったのは、道明寺の母親によるつくしへの攻撃が目的なのであって、ほんとうに事業縮小してのことではない。この違いの大きさを、分ってもらえるだろうか。

悪者っぽく決め付ける気はないけれど、しかしそれでも、ここまでつくしと司の関係が搾取されてしまった姿を見ると、やはり悪者ではないかと、思えてならない。

いや、もちろん、単に脚本家がドへたなのだろう。スポンサーは人格者で帝王学もあるから、金は出しても口なんか出さないし、だから脚本家や演出家の頭を混乱させたりはしない。ソフトバンクはもちろんトヨタがそんなセコイことをするはずがない。だから、脚本家や演出家やスタッフは、企業より何より主人公つくしを大事にし、彼女の人間像を愛情をもって表現している。

と思えたら、どんなにハッピーだったろう?

これを一発逆転できるとしたら、会議で発表した事業縮小計画や、マスコミ報道などは、すべて道明寺の母の捏造だった、というオチが付く場合だ。もちろん、その目的は、つくしと司を決定的に離すため、である。
捏造ばやりの昨今であるから、デビット伊東が首になったのも、鶴見慎吾が人生に失望し、司の目の前でビルから飛び降りた、と見せかけて実は生きていたのも、ぜんぶぜんぶ、恐るべき道明寺の母こと道明寺 楓(=どうみょうじかえで。演じるのは加賀まりこ。ハマリ役で見事な怪演っぷり)の策略だった!!

財力として、それくらいのことは楽勝でできるはずなので、それでもいいが、1話1話の完成度を高めなくちゃいけないのに、捏造とか陰謀なんて余計なことをやっている余裕はないから。

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第9話の最後では、リストラされたつくしの父(小林すすむ。超ハマリ役)が、漁村でせっせとワカメを干している。
本当は漁船に乗って漁をしようと考えていたのであるが、船酔いがひどくて船に乗れないので、岸でワカメを干す日々だ。
その父が訪ねて来たつくしに言うのだ。

「ワカメはいいぞー毛に」。
帽子をとって頭に被らんばかりに言うからひさびさにナゴミ系ギャグだった。
いやこれはひょっとして、裏メッセージ? 脚本家からの。
「ハ○」

そう想像したら、ちょっと笑えた。

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