毒婦たち 東電OLと木嶋佳苗のあいだ


ネットサーフィン(死語)していて出会った一冊。
帯びに壇蜜推奨!!みたいにあったため、壇蜜が推奨するってどんな本なのだろうと興味をもった。
それに「東電OL事件」にしろ「木嶋佳苗」にしろ自分がよく分かっていない事件なので、女性目線からの解説が聞けるのではないかと思った。

届いて中を開けて対談本と気づき焦った。対談形式の本が苦手なためだ。

といってもしょうがないので読んだら、今度は対談者三人の東電OLへの熱意の温度がそろわなさすぎて、つまらなく感じた。それに、読者が皆熟知していることを前提に話しているため概要が分からず、結局自分で調べることにした。

—-分からずとは言っても、東電の方は、検察の恣意的な捜査で犯人にされてしまったネパール人ゴビンダさんの冤罪事件、という切り口からは知っていた。—-

が、今回の切り口はそこではない。<毒婦>だ。それであらためて調べてびっくらこいたのは(まあこれも周知かもしれないのだけど)、東電OL事件の被害者女性は、「東電OL」というよりは「東電エリート女性社員」であり、父親も東大卒の東電社員だったという。しかも、東電の中で原発の危険性を訴えていた人物だという。その娘である被害者女性も父の遺志を受け継ぎ(わざわざ東電に入ったくらいだから、かなり本当に受け継いだのではないだろうか?)、反原発という意見の持ち主だったという。わたしが見たネット上のソースでは、当時の彼女の上司が「勝俣」氏であることも思わせぶりに指摘していた。

事件のあったのは1997年3月。当時、原発は過激な「反対派」と権力側の「賛成派」と、大多数の無関心派によって、まともな議論もできないでいた。さらに、金にものをいわせ「原発安全神話」がマスメディアを通じて周到に準備され実行され、国民全体を洗脳し、国民もあえて疑問を呈せずひたすら経済原理優先で邁進している真っ最中だった。

そんな空気の中ひとり、原発の中心地点である東京電力で反原発の思いを抱えて生きた女性…

つまり、ごく簡単に考えても、被害女性は、何重もの負荷を背負っていたことになる。
男性中心社会の東電で女性エリートである、というジレンマ、悔しさ。
学生時代から拒食症という、メンタル面の危機を抱えていたこと。
父親からの教育で育ったであろう、原発への先鋭的な意識、疑問。
その一方で加速する社内、世間、国家をあげての圧倒的な原発推進圧力と、その敗残者である父親の無念。
さらに憶測すれば、その無念は娘を支配することで代替したかもしれない。
拒食症はおうおうにして支配的な親のもと、体重だけが自身のコントロール可能なものであるため起きる、と聞いたことがある。(対談メンバーは他の説=「自傷としての拒食」の方を採用しているが)(どちらにしろ、憶測であることにかわりはない)

なんだこの想像を絶する痛ましさ。しかしそのように考えていったら、俄然対談の続きが読みたくなった。どう言っている? 東電OLについてこの女達はどこまで彼女の深みに踏み込んで、どこまで彼女の心理を解明し、どこまで腑に落ちるところまで落とし込んでくれるんだろう? とやたらと期待せずにおれず、先へ先へと読み急いだ。

北原氏は、原発事故以降に、当時を知る女性社員に取材を行ったということだった。「東電はやたらと女性が病気でやめていく会社だった」という証言を得ている。
なので、「原発」は出てきた。が、やはりテーマが「毒婦」であるため、原発は圏外であるようで、重要視はされていなかった。

事実、原発はさほどの意味はないのかもしれない。よく分からない。が、そういうことなら、気を取り直そう。どちらにしろ東電OLにひどく惹きつけられたから。
全体的に言って本書は後書きの長文も含め、1970年(昭和45年)生まれでメンバー中一番若い北原氏の毒婦への熱い思いが引っ張っている。他のふたりはサポート的に、それぞれの観点から北原氏に意見を述べていく、といった内容。ひたすら熱いのは北原氏だ。
それでは何に熱いのか? もっとも面白かった箇所を引用しよう。

(前略)
上野: 松浦理英子さんが書いた「嘲笑せよ、強姦者は女を侮辱できない」というエッセイを、『日本のフェミニズム』というシリーズの「セクシュアリティ」の巻に採用したのは私だけど、私でなければ誰も採用しなかったと思う。彼女の発言は、空前絶後、追随者がいない。性暴力に関しては、「性暴力で女は傷つく」というポリティカル・コレクトな言説しか、言うことは許されていない。性器に対する暴力と、身体の他の部位に加えられる暴力といったいどこが違うのか、こんなもので女は傷つかないって言ったときに、そういう例も実際はあるし、そう言うことによって女がエンパワーメントされる可能性もあるけれど、逆にこの言説に乗じて免責されると勘違いする男たちもいるだろうから、両義性は避けられない。

北原:だったら東電OLに関しての肉体的な快感も、他人には絶対わからないことじゃないですか。売春している女に対して、「快感がないに決まっている」みたいにこれ以上言うのって、どうなのかな。

上野:だからもうケースバイケースって言うしかない。そうじゃない場合もあるだろうが、東電OLの場合はそうだったんだろうね、って。

北原:状況は違うけど、私もセックスを売ったことがないとは言えないし、嫌だったセックスもひとつやふたつじゃない。でも、「だから私は傷ついている」というより、どんな状況であっても自分の根にある主体的な欲望をどう言語化できるのか、快楽を守っていけるのかが重要なんです。そういう事を、東電OLの事件をきっかけに考えるようになったんです。

ここの辺は本書中唯一、対立が生まれ緊迫した場面だ。東電OLの売春をあくまでも経済活動の一環としてとらえる上野氏と、「主体的な欲望」のもと主体的に快楽を得、一方的に男達に体を勝手にされたとは限らない可能性を主張する北原氏の。そこへ、客の4人にひとりくらいとは快感もあったんじゃないかと折衷案を出す信田氏が、まあまあとなだめ。みたいな。

そこへ続く引用部は、レイプについての見解であるから、それ以上に微妙だ。わたしは松浦理英子さんの「嘲笑せよ、強姦者は女を侮辱できない」というエッセイを読んだわけではないけれど、タイトルの主張はもちろん同感だし支持する。けれど、「レイプなんかで侮辱できっこないじゃん」といくら思っても、実際の被害者はそう単純ではないし、まして「侮辱でないなら犯罪ではない」と犯人側に開き直られる危険もある。それに侮辱か否かはともかく、傷つき苦しんでいるというのは確かなはずだ。ここらへん、作家が理想と真理のために使う言葉と、法廷で使うような言葉と、世間通念として使う言葉は、使う場所が違うことを配慮したい。犯罪被害者を保護する役目の言葉もあるはずだから、作家の言葉だけがすべてではない、とも考えられる。

しかし北原氏は、レイプに関してはそこまで言っていないけれど、東電OLの売春については快感であって何が悪いのだと、そのように主張している。
むしろ、そうであってほしい、そのように選んだ彼女自身がいる。そのように思いたい。

そこらを読むまでわたしは、売春というのは大変な仕事だから快感を得るようなものではないとばかり思っていたが、なるほど。その可能性はあるのじゃないかと、思った。

つまり、毎回の快楽があったか保証の限りではないが、自分もコントロールしたのではないか。
さまざまプレイの提案や、猥語を駆使することでだ。彼女ならやったのではないだろうか。
売春というと、一方的に黙々とやられているイメージがあるが、そうとは限らないのだ。

彼女は、当初よりどんどん値段を下げていったという。2000円とかだ。なるほど、自分も快楽ならお金をもらう理由がない。買う方は快楽だが、売る方はそうではないから、取引が成り立っているのだから。

彼女は絞殺体で発見されたらしいが、そのプレイも彼女の提案であり、それが失敗して、もしくは成功して死に至ったのではないか。彼女は快楽も、そして死も自分でコントロールした、のではないか……

 

少々感傷的になった。自分で書いてて泣けてきた。単なるひとつの想像にすぎないのに。

ところで「あとがき」で北原氏は極端な事を主張している。「生きているだけで私たちはみんな売春婦だ」と言うのだ。これはあんま賛同できない。そうやって、女同士フラット化してくれてるのかもしんないけど、それは東電OLが眉をしかめると思う。だって、服も脱いでないし、相手と交渉もしてないし、なんも動いてなくて売春って、それはどうなのかなあ? 売春はあくまでも対価を得て売春だと思うけど。で、対価もないのに売春めいた事を強要されるなら、やっぱその社会がおかしいんじゃないのかなぁ。←素朴な意見

この本には他にキーワードがあって、まずエンコー、そして壇蜜。(あとは「ケア」とか)
毒婦木嶋佳苗については何も書けなかったし、まだ未調査段階だ。ただ健在みたいでさっきもニュースをみつけた。
いつかこの毒婦についても、何か思い浮かんだら綴ってみたい。