長男が危ない,media:書籍
先日つぶれた草思社の本で、オフィシャルホームページで見かけたので購入した本。
結論を言えば、内容がメモ書き程度で、床屋談義(美容院談義か)を脇で聞いているみたいだった。
つくづくとアマゾンのカスタマーレビューを信じて買わないでおけばよかった。つい、楽天カスタマーの誉め上手の罠にはまってしまった。
とはいえ、犯罪者に長男が多いのはホントの気はする。(この場合の長男は、ひとりっこは含まない)
先日の秋葉原の加藤ナニガシも、両親と弟の四人家族だと読んだ。
特にわたしが衝撃を受けたのは「酒鬼薔薇と同じ年、怖い」母は加藤容疑者におびえていた…秋葉原通り魔事件という話。
深く考えるまでもなく酒鬼薔薇と同い年の人間は日本だけで何万人もいる。おびえる根拠になどなるはずがない。
にも関わらずおびえていた理由は、いくつもあるだろうけれど、ひとつは犯罪の報道の仕方にもあると思う。秋葉原の事件もそうであるが、ともかくナレーションがおどろおどろしい。陰惨なムード作りとそれらしいBGMでの盛り上げ。
普通のニュースの時間はそうでもないが、ワイドショーのように二次的に事件を扱っている番組では、ナレーションおよびムード、およびBGMでまるでホラー映画のように仕立て、「報道」の域から「エンタメ」の域へとシフト。
これらは、少年をもつ母親以外の視聴者にとっては、さして実質的な悪影響はないだろう。
けれど、そうでなく、現在進行形で男児を育てている母親が見たときに、どういう形でインプットされるか?
「一歩間違えたらこの子も、ああなる」という怖れ。
「だんだん目つきが悪くなってきた。それに友達もいない。変な趣味がある。暗い。これではまるで酒鬼薔薇…」といった連想を生むようになり、いつしかその観念にとらわれていく、とは考えられないだろうか?
子どもの方にしてみたら、そのように母親に「おびえられ」てしまうことは、どんなに孤独なことであろうか。
加藤ナニガシの母親は、きっと弟の方はおびえていないだろう。
「おびえ」を一手に引き受けるのは、長男の方である。
長男の下の子育ては慣れてきて、子どもが未知の存在ではなくなってくるためだ。
おびえの対象になるのは、そういう目で見るからで、本当に怯えるべき何かなど持ってはいないのだ。もし持っているなら、弟の方と五分五分の確立のはずであるが、たいがい長男であることを思うと大人のおそれの投影である可能性はますます高い。
子ども自身はきっと、ただ寂しく、ただ孤独なだけで、それが理解されない苦しさの中にいるのではないか。
わたしはここで何が言いたいか。
子どもにおびえるのはやめましょう。ということだ。
わたしにも、子どもにおびえる気持ちが分るから、なおさらそう言いたいのである。