ニートについて
☆公共機関のために準備中の文章です。誤りのご指摘やご意見をお待ちします。第1部
なるほどと思うことが書いてあった。
ことに、ニートに関して個人の自立の不全と考えるのではなく、社会の機能不全なのだとする考え方は、ニートの周辺に位置する者として救われる視点だと思った。
非正規雇用の若者の労働者に関して、わたしなどが前から不思議に思っていたのは、会社の奴隷にならずにすむのに、どうしてそんなに正社員になりたがるのか、ということだった。なにせ、わたしが成人した25年ほど前は、「終身雇用制」や「年功序列」や「社畜」やらが猛烈に批判されていたし、もっと言えば、男女の役割分担(夫は外、妻は家)も部分的にだったのかもしれないが猛烈に敵視されていた。古い日本のやり方や慣習が時代に合わなくなり、皆がもっと自由なものを求めていた。わたし自身も当然、いかに会社員みたいな組織の奴隷にならずに、自分らしく、自分のスキルを元手に、変なしがらみに縛られず、必要なだけの労働力を提供しながら生計を立てていくか、みたいなことを考えた(男女の関係についても、女性だからと家にいるのが当たり前なんて変だ、と思っていた)。
であるから、派遣社員のような労働の形態は理想的に思えたものだ。
ところがその派遣というやり方では、会社がモノのように扱い、使い捨てにするばかりで、まったくダメらしいのだ。
どうしてそんなことになったのか。
このmiyadai.comの論を見て推測したのは、あの時代、それに今も、国や政治が、個人のニーズに応えようとしなかった、ということかと。
それに、ニーズに応えられる政党もなかったので、投票という政治行動もできなかった、ということかと。
でもって現在、ニートもそうであるが、生計のための自転車操業を余儀なくされる派遣労働もふくめ、社会は「包摂性」を失い、中がガランドウになって崩壊せんとしている…… と論は考察する。
ニートという言葉の発祥元であるイギリスでは、それではまずいと、政治思想家を筆頭にあれこれ考え、何らかの対策を練って実行しているそうで、曰く、「個人に問題が生じているのは、社会的包摂が失われているのが原因だから、社会が包摂性を回復できるように政治や行政が支援せよ」。
本当にいいことを言うのがイギリス人で、昔も今も、イギリス人にできて、どうして日本人にできないのかと思う。しかし戦前の日本は、イギリスの真似をして植民地を持ったり、アヘン貿易をやったまではよかったが(よくない)、結局格好悪く失敗していることを考えると、イギリスの真似だけはやめた方が無難なんじゃないかと杞憂してしまう。
しかし、今は藁をも掴む思いで、理論だけは傾聴しよう。
イギリス政治の行った具体的な政策であるが、「感情に左右されがちな民主政治を健全化するには『感情の民主化』が不可欠」であり、必要なのは「一に教育、二に教育、三に教育」。さらに、その要となるのは、「誰を『仲間』だと感じられるか」を巡る感情教育だとする。その上で、「社会を国家に依存させるのでなく、逆に社会を国家から自立させるためにこそ、国家が社会を支援する」。
ここらへん、ピンと来るのがいつになく早かったのは、去年『法と掟と―頼りにできるのは、「俺」と「俺たち」だけだ!』を読んでいたから。論は主にイギリスを引き合いに出しているが、『法と掟と』では、明治時代無理やり近代化する過程で、廃藩置県などを行い、日本人が仲間意識を空洞化させていったことなどが書いてあった。最近、裏付けるようなエピソードがわたしの周りであって、同じ岩手県出身なのに反目しあう2人がいて、「お国は同じなのにね」と片方に言ったら「あたしは南部であっちは北部。廃藩置県で無理やり一緒にさせられたけど、昔から敵同士なの!!」と、そのまんまなことを言っていたので、やっぱりそうだったんだと感心した。
『法と掟と』が取り上げていたのはニートや派遣に限った話ではなく、正社員も何も全部含めた日本社会全体にはびこる空洞化なので、根は深く、そうなると、ニートを生み出す社会の不全を正そうにも皆が皆空洞化しているので、その力も無いことになって、絶望的である。
そんなで、この話は終わりだ……
ちゃんちゃん
というのもあんまりなので、一体どうやったら、仲間感覚が育ち、それを基本とした社会が形成され、さらにそれを国家が支援するという形になりうるのか。
とりあえず仲間の方であるが、思いつく方法は、
1:共通の敵を持つ
2:hatenaダイアリーのユーザーになりキーワードでつながる
3:宗教に入信
というのはどうだろうか。あまり教育現場向けではないが。
わたしの場合、仲間になった後のしがらみに嫌気が差すことが多く、すぐに離脱してしまうタチだ。これは、反社会性とは言わないまでも脱社会性につながっていて、このトシになっても社会のルールを習得し損ねているところがある。が、基本的には、「それ以上の会話にならなくていいから会ったら挨拶する」「とにかくすみませんとかありがとうと言っておく」「とにかくあいまいな笑顔を浮かべておく」という三種の神器でかろうじて大過なく乗り切ってきたわけであるが、途中、やや宗教に頼ったり、不安定に陥ってパニック障害に罹るなど過酷な時代もあった。
今の職場も10年いるが、この三種の神器もほころびはじめたため、そろそろ辞めて他の職場に行きたくて仕方なくなっている。しかし、そうこうしているうちに、社会の方がガランドウになってきたため、何がルールかわからなくなり、わたしには有利な展開であったが、子どもの行く末のことを考えると、そうも言っていられないんだなぁと、思う。
(しかし、本当の仲間とは、仲間から離脱せんとする心理が働くことを見越したうえで、そこまで許容しつつよき関係を保つためのルールがあってこそ、のものではなかろうか)
ところでこの話の最後の方には「非社会性ゆえに追い詰められた社会成員」や「人格障害」まで登場するが、今、社会の不全への対策としては、追い詰められ殺人を起こす人や、病院に通っている人よりも(社会の不全の結果とも考えられるので)、普通にニートになっている人を対象に考えた方がいいのではないだろうか。実際「境界性人格障害(きょうかいせいじんかくしょうがい、Borderline Personality Disorder,BPD)」の人は病院によくいるが、彼もしくは彼女らの力は強大であり、彼もしくは彼女の担当になどなったら、毎晩夢に見るといっても過言ではないほどの、強い影響力を持っている。その影響は不快なものである事が多いが、逆に言うと、人間ってそれくらいの可能性を持っているということなんだとつくづく思う。日本で「社会性」といわれるものは、おおむね個人の可能性や力を潰すことが主眼になっているのではないか。
ともかく、早いところ、いろいろと変わってほしいところであるが、具体的に何がどうなればいいのかは、今は見えていない。