【れびゅう】壬生義士伝 / ケーブルテレビにて
壬生義士伝 [中井貴一]|中古DVD【中古】 |
周期的にやってくる感のある幕末ブーム。そのせいか今年の大河ドラマは坂本龍馬らしい。
不景気で金の循環が悪く、閉塞感が増大してくると、鎖国から開国へと動いたダイナミックな時代にあこがれたりするのだろうか。
わたしの場合、「幕末とか勉強しなくちゃ」と思いつつ、新撰組とか龍馬とかああいうのにどうも興味がもてないままン十年と生きてしまって、今さら恥ずかしいので知っているふりをするしかない。
さてさて『壬生義士伝』は新撰組発祥の地が壬生(京都にあった)であること、そして「義士」の方は、新撰組の組員で、義に生きた吉村貫一郎をはじめ、最後まで幕府側として戦った新撰組の一同を指してか、このタイトルになっている。
新撰組と聞いて「知らなーーい、何それ?」なんていう御仁はいないだろうけど念のために説明すると、幕末に、幕府の護衛みたいな、警察みたいなことをやった、つまり幕府側の兵隊みたいな人たち。けど時代が倒幕に動いて、どうにもこうにも追い詰められて悲劇的最期を遂げた人たち。
新撰組は、数々の逸話を残しているんだけど、調べるとほとんどが司馬遼太郎などの作家の作り話らしい。あとドジさまとか。あ、ドジさまご存じない? 木原敏江のこと。『天まであがれ!』っていう新撰組の話が有名。けどあたしはその時期から生意気だったから集英社の少女漫画は馬鹿にしくさってたから、読んでない。せめて『天まであがれ!』さえ読んでいれば、もう少し新撰組に詳しかったろうに。
一方、『壬生義士伝』の主役は吉村貫一郎という、南部(岩手)の侍だったものを脱藩して新撰組に入った、あまり少女漫画の主役には抜擢されそうもない風貌の人。イナカッペなのが特徴。
そこを中井貴一が、南部訛りを上手にマスターし、訛りゆえの素朴さ温かさリズミカルな軽妙さをもって演じているのが、この作品最大の見どころ&聞きどころ。でもって、当時「脱藩」というのは、とんでもなく重大な裏切り行為というか、非国民扱いなことだった。なのにどうして脱藩したのかといえば、ただただただ、「銭っこ」のため。それもこれも家族にメシくわすため、ひもじい思いをさせねえため。妻が「口減らし」のために入水して死に掛けた時に、武士にあるまじき「銭っこ」のためという動機なんだけど、そう決意した。
だから、あのかっこいい新撰組に入ったとはいえ、みんなに嘲笑われながら吝嗇にはげみ守銭奴になった。切腹の介錯したときは、「介錯で刃がこぼれた」とこじつけて銭を要求し、その額が少ないとジトーーーッとヘンな顔をして(ここ、名演。あと、不満なときはそういう顔をすればいいんだと、勉強になった)さらにせしめようとしたりと、金第一主義になった。
そんな、金第一主義で、故郷の藩は裏切った吉村だけど、金のためばかりではなく、幕府を守らんとする?使命感もあったようだ。ここらへん、わたしの理解力では把握しきれなかったのと、ネットで情報収集したけどそこまで詳しく書いてあるソースがなかった。けどどちらにしろ、「義」のために生きる一線というのは残っていた。
「義」が何かを説明することは難しい。外国辞書をひくと、義は、英語でもフランス語でもJusticeが出て来る。Justiceも当たっていると思う。わたしはJusticeという言葉は大好きなのでJusticeでもいいけども、やはり日本のこの時代に言う「義」は、主人に対する忠誠を含むもう少し微妙な何かかと思う…(ちがうかも)。あとは、自分の信念も含むかもしれない。あるいは、自分の仲間を裏切らないこともあるのかもしれない。どれをもって「義」なのかは、なかなか判定しづらい。ある意味、見る人が、それぞれ自分好みの「義」をあてはめることもできる。これが、主人への奴隷のような忠誠と決まっていると抵抗を感じるし、集団隷属主義めいた「義」だったら、今の時代に受けいれることは難しい。
どんな義だったのか、感じながら見れるのがいい。
中井貴一の演技はそれはそれは面白かった。
対極にある、都会的な佐藤浩市もgoo
さらには、堺雅人の沖田総司、最高だった。頼むから堺雅人主演で「天まであがれ!」(でなくてもいいから新撰組の話)やってほしい。脚色でもうちょっとアダルトand狂気を加えて。
塩見三省演じる近藤勇の、鷹揚さと俗物さの混ざり具合も絶妙。
といったあたりで楽しめる映画なので、それは良かったんだけど、最後にいたって殺人的に泣かせる映画となっている。それはもう、ほんとうに殺されるかと思うくらいの。
中井貴一演じる吉村は、お前は生きなきゃダメだと言われ続けたにも関わらず、両手に刀をくくりつけて敵軍に突撃。敵はすでにして毛唐じこみの鉄砲やら大砲を持っているから適うわけがない。ここらへんラスト・サムライでも見られた、あまりにも無体な特攻ぶりであるも、そう感じるのは、今の時代感覚であって当時は他の選択肢はなかったのだろう。ちなみに、ここらの戦いのファッションも見所である。ヘンな三角の兜?とか。
その後吉村はかろうじて死なずにすんで、息も絶え絶え彷徨っていると、故郷南部の旗を掲げる屋敷(南部藩の出張所のような屋敷)をみつけて入る。するとそこには、兄弟のように育った幼馴染である、大野次郎右衛門(三宅裕司。かなりえらい地位)がいた。ここで、大野がどう応えるのか、吉村を助けてくれるのか、と期待したのもつかの間、大野は「恥を知れ、この壬生狼めが!」「潔く切腹しろ!」と怒鳴るのであった。
けれど大野は武士の情けで、切腹用の一間を貸してくれて、その後、「腹が減っては決心もつかないだろう」と大野みずからおにぎりを握ったりするあたりからして、涙涙の大攻撃になっていくのである… さらに、大野の昔ながらの家来というのか乳母の男版みたいな人がいて(名前は佐助。山田辰夫)、それがまたいいんだ。家来らしい影の薄さがちゃんと出ていて、それでいて心理が手に取るように分かるような動きや表情を見せてくれて。
佐助は吉村におにぎりを渡すのだけど、あくまでも主役は中井貴一なので、中井より出てくるような要素は欠片もなく、とくに心に残るセリフを言うでもない。だけど「この人分かってくれている。吉村の気持。それに主人の大野の気持も」という、ものすごい安心感ていうか、救いを与えてくれている人物なのだ。
でもって吉村の、おにぎりもらった後が長い。
おにぎりを持って「南部の米のにおいだ」といって、うっとりして、その後佐助も遠慮して部屋を去って、手からおにぎりがこぼれ落ちて、結局おにぎりは食べなくて、その代わり、えんえんと長く、そこにはいない家族に向かって話し始めて。
もう、泣くよ。
たまたま冬休み中の末次郎と見てたんだけど、泣き顔ってお互い見られたくないから、顔をそむけあって。鼻水もすすれないし、角度によってほっぺたの涙が見られちゃうし、へたしたら嗚咽がもれそうだしで、呼吸を止めていたから苦しいのなんの。
この時の、中井貴一の一人芝居が充実しているというか、円熟というのか、感動の嵐というか。
それにしても長いので、最後の方はほとんど飽きてくるくらいに長かった。
人によっては、そんなに長くなくていいのではないか、もうすこし早く切り上げてもいいのではないか、ちょっとダレるのではないか、という人もいると思う。(はい、わたしですが)
けれど、思いなおせばそれくらいでいいのかもしれないと思った。
何でも早くテンポよく済ませたがるのもよくないと思う。
時々「無意味な延命は無駄である」という、もっともな意見を聞くけど、どこから無意味な延命になるのかはなかなか一概に言えないし、えんえんと続く延命医療であるからこそ、お互いに(生き残る者と死に逝く者)とが、いい具合に「飽きて」、お互いへの未練がなくなる効果だってあると思うのだ。もちのろん、無意味な延命は金の無駄であるので、やめた方がいい。だからといって、これが死ぬタイミング、というのもなかなかに計りがたいし、残る家族も「そろそろ、逝かせてください」と内心思っていても、口に出すのは憚られる。
反対に、急に死なれてしまうのも、本当にダメージが大きいのだ。
いいたかった礼の言葉、いいたかったねぎらいの言葉、いいたかったゴメンという言葉、してあげたかったやさしさ、そういうものを何ひとつ出来ないまま急に逝かれるのは、後悔の念が沸いて沸いて仕方なくなる。延命の間にしてあげられるという、メリットもあるのである。(意識がないのであまり効果的ではなく、やはりお互い元気なうちに、後悔のないようにしておくのが一番いいだろうけど、そう理想どおりにはいかないことが多い)
といったことを、思わず考えていたくらいに、中井貴一の演技は長かった。
それくらい長かったから、中井貴一こと吉村貫一郎が切腹して死んだときも、それほどはツラくなかった。ああ、やっと楽になった、と思えた。
その後どうなったのか、というのはDVDで見てもらうとして(まあ今までのも全部そうであるが)、色々と凝った構成になっているので、一枚の写真をめぐって、同じ部屋でふたりの人物がそれぞれ回想したりとか、家来だった佐助が意外な形で再登場したりとか、面白い。
そんなでこの映画は、人の情、さらに「義」。
さらには、ひもじさの感覚と、そんな思いをさせないため己の恥も捨て家族を思う、家族への情愛。それらを、妥協なくとことん、くどいほどに描いている。あっさりとした気の利いた、垢抜けたスタイリッシュな感じは、前半の新撰組にこそあるが、それはさほどメインではない。
人がそのために生き、また生かされる情というものを、思う存分に描ききったと、わたしは受け止めた。