PART2 冷戦時代を足がかりに考える、現代の若者群像。というか若者個人

サマリー
前々々回の続き。無業社会シリーズの続きでもある。なかなか社会が若者を弱者と認めない。それはなぜなのか。本稿では冷戦時代にその理由を求め、認識の変換の必要性を説く。

仲間を一からみつけないといけない時代

そんなで、わたしらの世代は生まれたときから西側諸国、もしくは日本人、もしくは同様の価値観を持つ者同士ってことで仲間として生まれた。

しかし約25年前冷戦時代の終焉とともに、仲間の根拠を失った。

25年もたっているから、わたしの把握してない何かが起きてて、意外と皆さん仲間がいるかもしれない、とは思った。でもたぶん、日本人全体をカバーするような仲間ではない。職場とか趣味のサークルとかの、あとで自分で参加したりみつけた仲間ではないだろうか。ことに職場がイコール「世の中とのつながりの総て」であることは昨今、問題が多いと指摘されてもいる。

最近のエンタメニュースで目立ったやつに、「ど根性ガエル、マツケン主演で実写化」というのがあった。「ど根性ガエル」、70年代のバリバリ冷戦時代の作品だ。わたしも子供時代見ていた。面白いんだか面白くないんだかよくわからないユルいギャグマンガである。ちなみにユルくなく面白いのは「ガキデカ」とか「マカロニほうれん荘」とか色々だ。

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この頃の作品なら、ご町内を巻き込んだドタバタ劇を存分にやれる。今の時代なら近所の子供なんかを巻き込んだ日には、不審人物扱い(というか、ほぼ本当に不審人物)で交番につかまってしまって、話にならない。

(・・・・よく調べたら、マツケン主演のドラマ、時代設定はあの頃ではなく2015年で、ひろしが30歳の設定だという。・・・・あの頃わたしより年上だったひろしが、どうして30歳なのか。いいけど・・・)

そんなこんなで、仲間を一からみつけなければならなくなった時代。

否が応でも弱者になってしまう時代。

いろいろなフィクションや自己啓発型の言説が、さも願えば叶うと個人の力を誇大に言うが、実のところほとんどの人間は平凡でひ弱だ。そうではないかのような強がりのための、方策がいろいろあるだけで。

それでも、今の若者に尋ねたら、知らない他の国を悪と決めつける幻想に基づいた冷戦時代に戻りたいとは、思わないと思う。たとえそれで、自然発生的な仲間をもつことが出来なかったとしても。

そんな強い弱さは、サポートしないといけないのじゃないかと、そう言いたい。

ことに、冷戦時代の感覚の残っている今の中高年層〜高齢者にとっては、若者イコール仲間いっぱいで跳ね回っているやつら、というイメージが強烈では? と思う。

いくつになっても、時代の風を受けて、鋭敏になっていたいものですね☆ 同輩のみなさん


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