アイズ・ワイド・シャット / media:hulu

1999年のキューブリック監督映画をhuluでみた。hulu、それとノートパソコンで映画を観るという行為に慣れない。こんなお手軽な映画の観方があっていいのかと落ち着かないのだ。テレビで放映するのを待つよりも、レンタルビデオを借りてくるよりも、DVDを買ってくるよりも。いわんや映画館へ我が身を運ぶ手間と比べたら!!

ファスト。ファストフードならぬファスト映画鑑賞。

わたしはなんでもかんでもファストであることが嫌いだ。映画館でないと映画みないぞー!!

と思いつつ観てしまった。まあいいよね、ずっと昔、1999年の映画なんだし。

アイズ・ワイド・シャットはキューブリックが試写後5日目に急死した作品で、リアルでも実際の夫婦であるトム・クルーズとニコール・キッドマンが夫婦の愛と性と嫉妬ともろもろを演じた作品。という予備知識からして疲れそうな映画で(当方、実は心底の映画ファンというわけではないんだと思う。疲れそうだとひるむ)、キューブリックファンなのに長年見逃していた。

ところが観てみたら、あんまりにもマトモな映画で拍子抜けしたほど。特に、トム・クルーズが嫉妬と欲望(と、思われる。男でないのでよくわからない)に懊悩する表情と、そのさまを追うノロノロした重たい時間経過が新鮮に感じた。わたしの美意識では「ハンサム」ではないトムだけど、あちらでは典型的なハンサムガイなんだろう。誰も彼もがトムに魅了される。そしてわたしも、苦悩しつづけるトムがだんだん愛しくなってしまった。

上の写真はその懊悩も終盤に入ったあたり。ふわっと自分も一緒に入りたくなるような夜のカフェ。持っている新聞に重大なニュースをみつけることになる場面。その中で、奥の方にさまざまな人種の男女が談話しているのが見える。金髪の女性など、身を乗り出して話に熱中している。これ、患者サンたちがやってるSST(ソーシャル・スキル・トレーニング)での、「人の話を聞く時は身を乗り出すように」という合い言葉を思い出してしまった。

カフェではひとりでコーヒーを飲むのもよし。いろいろな人たちと会話を楽しむのもよし。そこにはドロドロとした欲望なんかないし、不気味な秘密結社じゃないから裸にもならなくていい。不気味な世界と扉一枚隔てただけの危うさが日常にはあるんだとも解釈できるけど、その扉があるのとないのじゃ大違いだ。

その後危機を脱していくトムとニコール夫婦は、クリスマスの買い物に出る。ぬいぐるみやおもちゃが山積みの玩具店の通路を歩く。ここではトムがすっかりと男としての自信も威厳もなくして弱々しくなっているのが、もとからそういう人に見えてしまうくらいだった。対する妻の明晰さと強さはどうだろう? すがすがしく気持ちいい。快感。こんなに気持ちいいラストシーンってめったにないんじゃないか?

しかし困ったのは、その余韻がさめやらぬまま検索すると(なにせノートPCで観ているため何気なく検索できてしまう)、余計な情報が出てきて興ざめだった。曰く、トムとニコールの夫婦は映画完成後ほどなくして離婚しているのであるが、トムが一方的に離婚を突きつけた。ニコールはそのトラウマから立ち直るのに苦労したという。

そういえばこの映画でも最後に良いセリフを言っているのは妻の方であって、夫ではない。夫もマトモなことを言っていれば良さそうなものを、映画中では発することはなかった。彼も何か言っていれば、実際の夫婦の危機も多少減ったのではないかと夢想してしまった。

さらに、つい最近のニュースも目に入り、ニコールはトムとの結婚生活の暴露本を1100万ドルで契約した、という。まったくもってこんなに映画の余韻をふんづけまくる話もない。いくら1999年から18年間の間に観てなかった自分が遅すぎるとはいえ。

これだけの後日談が延々とあっても、それでも『アイズ・ワイド・シャット』の輝きは失せていない、と思いたい。
ファストファストの2017年の世の中では、ノロノロしてて寝そうになる映画だけど、だからこそ目が覚める思いがしたのだ。苦悩には時間がかかるということ。ファストな苦悩なんかないこと。ノロノロノロノロと無駄(に見える)時間が流れること。

この後、まだまだ、トムとニコールのゴシップが耳に入ってくるだろうけど、ふたりが元気な証拠ってことだと思う。

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