ダークウェブの教科書から考える匿名の意義

先日、『ダークウェブの教科書』にamazonカスタマーレビューを書きました。amazonカスタマーレビューってなんとなく緊張するのでまたもや固い文章になってますが‥‥

そこに書き忘れたことについて、当記事で。
スノーデン 監視大国 日本を語る』にもあった、アメリカの国家安全保障局(NSA)の「大量監視」。
大量監視というのは、とにもかくにも全員の通信を傍受して全部の通信やネット上に存在したデータをストックしてしまうやつ。
そんなご苦労なことをして何になるのかというと、後でXKeyscoreなる検索エンジンで該当する情報を検索し、「やっぱこいつが怪しい」的に判断したり証拠にできるらしいのだ。

このXKeyscore、人ごとでははなくて、日本もアメリカからXKeyscoreの提供を受けていた、つまり日本人も大量監視されていた。(というか、いる)(?)

なので、たとえば今当方がこうやって書いている内容も、今は自由に発信できるけれど、いざ何か疑われたときに、「こいつ、こんな事書いている、怪しいから通信履歴と内容を確認してやろう」とかなるし、それが可能。

ここら辺に関連してスノーデンはこういうことを言っている。

 結局のところ、人々こそが民主主義の最後のよりどころです。

 だからこそ、疑問を抱く習慣を身に着けることが必要です。たとえば、私たちがプライバシーのことを、そしてそれがなぜ重要なのかを語るとき、政府はしばしばこう述べます。

 「隠すべきものがなければ、何も恐れることはありません。プライバシーのことを心配する必要はありません。良き市民である限り、何も影響を受けません」と。この説明がどこから来るものか、考えてみてください。

 これは、第二次大戦時のナチの宣伝大臣、ヨーゼフ・ゲッベルスによるプロパガンダです。彼の言葉は決して正当化し得ないものを正当化しようとするものでした。真っ当な社会の自由第一号とも言うべき重要な原則、すなわち無罪の推定を破壊することによって、人々の私生活、コミュニケーション、さらには思考に対するコントロールを正当化しようとしたのです。

 〝隠すことなどない〟という主張は、政府が負うべき有罪の立証責任を転換させ、人々に対し自らの無実の証明を強いることとなります。この、〝専制国家の自由第一号〟は、ゲッペルスの国家において人々を支配するために用いられました。そしてこれは、かの国だけにとどまるものではありません。

(↑↑改行は当方による)
「悪いことをしていないなら監視されていたっていいじゃないか」という考えを持ってしまいがちだが、間違っているという説明だ。

上記の引用はどうしてもしたかったので、この記事をアップした。

肝心の『ダークウェブの教科書』についてだが、「児童ポルノ」といった言葉をあまり無邪気に出されると鼻白むので、慎重になってもらいたいと思った。
といっても現実問題このコンテンツがダークウェブの特徴でもあるし、人は禁忌だからこそ近づいていくことを考えると、伏せてばかりもいられないのかとも思いつつ。

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「ハッキングや監視が起きるのは、情報通信が安全ではないからです」ともスノーデンさんは言っていて、Torなどの匿名化技術が安全、という考えていいのか? まあ素人なのでよく分からないが‥‥

ちなみに、関連サイトでダークウェッブの説明を見たら、↓こういう図があったけど

『ダークウェブの教科書』を参考にしてダークウェブに行った感想としては

じゃないかと思った。罪もない人をさらして糾弾するようなまねをしているのがクリアウェブなのだ。
また、かなりの場合、わざわざダークウェブの掲示板などに書かなくても、クリアウェブに相当おかしなことを書けている現状がある。ダークウェブで好き放題書けるはずの「オニオンちゃんねる」などの閑古鳥はすごかった。いいんだか、わるいんだか。