今蘇るどん底へ
初台の新国立劇場で『どん底』をみた。客の年齢層が幅広い。若者から相当な高齢者まで。60代後半の男性、それに女性も。わたしの父と同年代(80代後半)の人も。
ゴーリキーのどん底、書かれたのは1902年冬~1903年の春。
自分の作った年表で確認すると、日本では『共産党宣言』が翻訳される2年前。『天皇と東大』で読んだけど、この時代の東大は(ってことは日本の知の最先端は)、「皇国史観」派とマルクスに影響を受けた社会主義運動派に割れていた。
割れて、どっちが正しいのか、もめにもめていた。
いわゆる、右と左ってやつ。
はっきり言って、頭がいい方は左である。右はすぐに暴力に訴える。東京大学の学者とかのくせに、暴力(殺し含む)を悪いと思っていない。
当時は、西洋に追いつきたい一心で必死だったが、同時に日本のアイデンティティーも失いないたくないがために、天皇をどう位置づけるかで、東大(帝大)はもがいていた。
その決定打と言えたのが、美濃部達吉の天皇機関説‥‥
しかし「皇国史観」派はそれが許せなかった。「天皇を機関車とは何事だ!!」と、本気で怒っている人もいたほど。いかに、名称のイメージが大事かって話で、美濃部さん、もっとセンスのいいネーミングにしてよねーもう
まあ、ここらへんの話題はまたにして。
どん底。
宮本百合子 マクシム・ゴーリキイについて(青空文庫)
面白いなあ。宮本百合子といったら「日本共産党」の最大幹部の奥さん。
今回の作品は、そういう左右の変な確執から脱皮した内容になっている、と言っていいのかな。
いわゆる、イデオロギーを超えたら、どうなるゴーリキー、どうなるどん底!!?という妙味。
いやこれ、本気でおもろい興味。今気づいたんだけど。
しかし原作の『どん底』、青空文庫の有志の方がまだタイプ終わってなくて読めないの残念だった。amazonカスタマーレビューではめちゃ評判よいので、よけい読みたくなったのに。
エッと驚いたのは岸田國士 『どん底』ノートだ。岸田國士という演出家がどういう人かまでは当方無知であるが、ともかくとして、ルカーを悪的に位置づけている。
我らが『どん底』では「愛されキャラ」だというのに。
といっても、わたしも見ていて「このおじさん、どこまで信じていいの?」という不安を感じた。ルカーは、キーパーソン的人物ではあるが決して誇大な位置づけをされていない。特に偉大にも見えないし、特に素晴らしい人物にも見えない。彼の言うことはいかさまに聞こえる。何か騙されている感じがする。
もちろん、役者はもっと堂々と演じることができる。もっと確信をもって、もっと人々に夢と希望という名の幻想を与えるように。
そうなっていないのが、現代の『どん底』?
決して面白おかしい芝居ではないけど、幻想を与えてこない、という一点を慈しもう。
鉄パイプや木パレットやコンテナで設定した木賃宿や、お馴染みの(この時代の)立ち入り禁止の看板や、「右に寄りすぎない」(という後ろの工事看板)や、女性会社員が帝政ロシア時代の女性に扮する瞬間(冒頭)を、慈しみましょう。