暴力はどこからきたか / media:書籍
暴力とは何か、ひいては戦争や紛争とは何か。どうしてヒトはそれを起こすのか。
といった疑問について考えるためのヒントが、『暴力はどこからきたか』には、惜しみなく提供されている。
著者は長年に渡って、野生のニホンザル、チンパンジー、ゴリラの生態を観察してきた「霊長類社会生態学」の専門家なので、ヒントのジャンルも、ヒトにもっとも近い動物であるところのおサルの生態を通じてだ。
ただし、おサルの種類は非常に多く、ニホンザル、チンパンジー、ゴリラの他にも、ボノボ、オランウータン、テナガザル、メガネザル、マーモセット、マカク、ヒヒ等々多数にのぼる。そのそれぞれが同じ霊長類というには、あまりに多様な生態をしているから、彼らの行動をもってしてすぐさまヒトに応用し、だからヒトはこうだ、ああだと決め付けることは出来ない。
ここらへんがある種もどかしいところでありつつも、逆に考えると、ヒトの社会のあり方が、今ある姿以外の可能性も充分にあると思え、非常に興味深い。
その一例が、誰が父親か?という問題で、今現在、多くの国が「一夫一婦制」を採用し、子どもの父親が誰かと聞かれれば、おおむねそれはその家庭の「父」ということで落ち着いている。霊長類でこれと似た社会制度を持つのはゴリラで、ゴリラは父系社会を形成し、メスがグループ間を移動(移籍)することでインセスト(近親姦)を防いでいる。また、ゴリラはオスも子育てをするため、子育てを通して培われた「親しさ」がインセストを回避している。
最近のDNA鑑定技術の向上により、父子関係を明確にすることが可能になった。それによれば、ゴリラの群れの子どもの父親は、ほぼ100%群れの核オスであることが分ってきた。
が、サルの中には、こういう貞淑な関係を成り立たせているのばかりではない。
チンパンジーなどは乱交乱交また乱交だ。といっても、乱交というのは、あくまでもヒトの価値基準による言い草であり、当人(当猿)にしてみれば乱交とか不道徳とかそういうのがあるはずはない。それどころか、乱交には大きなメリットがいくつかある。
- 1:誰が父親か分らないので、オスみんなが父親の可能性があり、みんなで子どもを育てよう、という機運が高まる
- 2:一部の選ばれたオスだけが性交をできる社会ではなく、みんなが性交できる開かれた社会
正直言って、1はともかく、2はヒトの女性が聞いたら「ぎょえーーやだーチンパンジー社会になってほしくなーーい」と言うかもしれない。しかし、1のメリットは大きい。
というのは、ゴリラのように、誰が父親か明確な社会では、何らかの原因で父親(群れの核ゴリラ)が死んで新しいオスが群れに入ってくると、すでにいた赤ん坊ゴリラは殺される。それくらいゴリラのオスは嫉妬深いというか、自分の子孫にこだわるというか、心が狭いというか。むろんこういうのもヒトの判断であって、当人(当ゴリラ)にしてみればそんな裁定は知ったことではないだろうが。
それに近年では、核ゴリラが死ぬ原因が「密猟者」の密猟であるケースが多いというのだから。
育てていた赤ん坊を殺されると、母親ゴリラはすぐさま発情して、新しいオスと交尾開始し、再び子どもを作り出すと言う、人間界の感覚だと「オンナの業」めいた若干淫猥な話になるが、むろん当ゴリラにしてみれば必死だろう。密猟者の件は、本書のメインテーマではないためサラリと触れるに留まっているが、ヒトが変な風に自然界に介入することがいかに罪深いことかと、再認識した。
【bk1による内容説明】
霊長類は「食」と「性」をめぐる争いを、それぞれの社会性をもって回避してきた。屋久島のニホンザルやコンゴ民主共和国のゴリラをはじめ、世界中の霊長類の姿を最新の研究成果から明らかにし、人類の社会性の起源に迫る。
他にも興味深い話が(というかわたしの興味は偏っているかもーだが)豊富にあって、明確な序列社会であるニホンザル社会では、メスと交尾する権利を持つのはボス猿だとばかり思われていたが、DNA鑑定技術の向上により、「驚くべき事実」が白日のもとにさらされた。
なんと、生まれてきた赤ちゃん猿の父親は、そのほとんどがボス猿では「なかった」、のである!!
下位の方で何となくプラプラしている下っ端猿の方が大いにHして父親になっていた。ばかりか、群れに新しく入ってきた新参猿が父親判定されることも多かった!! これは何を意味するか??
ニホンザルのメス、やるな~~
新鮮なオスにフラーっとなびいていくのは、メスの本能だった!!
というか、こちらもまた、常にメスを側にはべらす権利を持つボス猿とは「親しさ」が芽生え、性交へのスイッチが入らないというインセスト回避行動の一端らしいのだが。
気は重いけどヒトの場合も考えると…
本書は、第五章まであるうちの第四章までは猿の話で、最後の章に著者自身による、人間の起源を探る考察と仮説が述べられている。この仮説がまた、1行1行に密度の高い情報が満載で、部分を引用するのが困難だ。それに、著者の語り口も、猿相手の時には温かみがあったものの、人間相手になると多少ギクシャクして、それまでの猿のデータの蓄積との関連性もあまり感じられない。読んでいるこちらも、人間の章になったとたんに気乗りがしなくなって難儀した。それでも、今も残る狩猟民族であるピグミー族の、狩った獲物を村に持ち帰る際の作法は、非常に感動を呼ぶ。
その他、ゴリラもチンパンジーも生後1年は赤ん坊を自分から手放さないが、人間は早々に手放し仲間に預ける、ということと、子守唄の関係を述べている面白い仮説がある(これは海外の心理学者の説)。わたしがそれを読んで閃いたのは、もしもそうなら子守唄を歌ったのは、母親ばかりではなく父親もではないかと。
というのも、うちの場合、男の子ども(2人)は比較的子守唄に効果があったが、女の子どもは癇が強くて効き目もなかったからだ(大きくなって一番音感が発達したのもこの子なのに)。ひょっとしたら、母親の子守唄は、おもに男の子どもに効果があるのではないだろうか。しかし、男(父)が子守唄を歌うことは滅多にないため、女の赤ちゃんに父親(男声)の子守唄が効き目あるかどうかは、未確認だ。
話は前後するが、とても興味深かい「常識」をくつがえす話が冒頭に出て来た。
今までの常識では、「人類は直立二足歩行になって両手が自由になり、狩猟のための武器を手にし、それによって飛躍的に進化した」
またさらに「武器を、狩りの対象である動物ばかりではなく、武器が増幅させた攻撃本能のままヒトにも向けるようになり、ひいては戦争や紛争を起こすにいたった」
これは、頭部に二つの穴の開いたアウストラロピテクスの化石がみつかり、穴の由来を「仲間の攻撃」による、と解釈した論文に端を発しているのであるが、その後、これはまったくの間違いであることが判明。穴は、ヒョウの牙と一致した。穴の主がもろもろの動物の化石とともにみつかったこともあり、狩猟と仲間割れが同時多発したかのように誤解され、この説が広まったが、そうではなかった。
初期人類のアウストラロピテクスは、ヒョウに食べられていたのだ!!
あーびっくりびっくり。初期人類は、狩りを行うよりも、どっちかというと狩られる方で、捕食される立場だったらしい。
ところで、1968年のアメリカ映画『2001年宇宙の旅』について、本書に重要な指摘があったので、最後にふれておこう。
『2001年宇宙の旅』に、宇宙からやってきた物体「モノリス」を囲むサルたちが、物体に霊感を受けたかの如く突然知性に目覚め、骨を「武器」として使い始めるシーンがある。サルが空中に放り投げた骨が、時空を超えて宇宙船に変わる象徴的なシーンも。このシーンこそが、<人類の祖先は武器を手にしたことで進化した、といったイメージを深く植え付け、さらに、人類が戦争したり核兵器開発するのは原初に定められた「本能」なのだとする人間観>を、人々の心に定着せしめた、と指摘しているのだ。
これは、『2001年宇宙の旅』をリアルタイムではないながら、リバイバルロードショーで観た立場で言うと、確かに、相当定着した。
実際あの宇宙船は、実は宇宙船ではなく「核ミサイル衛星」であったとは、わたしの手元にある『映画の見方がわかる本
』(町山智浩著)に書いてある。キューブリックは多様な見方が出来るよう、なおかつそれ自体が宗教体験になるよう、あえて言葉で色々説明しなかったが、人類の進化というものを、明確に核や戦争と結びつけていた(証拠の文書がちゃんとあるので確かだそう)。
しかし、そうとは知らない一般観客は単に宇宙船と思い込み、人類の輝かしい進化と捉える向きも多かったそうで、そうではないのだよと、町山氏は書いていた。
つまり、
ややこしい話しになるが、キューブリックは、結果として間違っていた。
ただ、表現者のカンで、そうと明示しなかったがゆえに、間違いは表面化することなく、普遍性は保たれた。
ということになる。さすが、キューブリック?! というべきだろうか。
ここらへん、わたしと同様にすっかり刷り込まれてしまった方がいたら、一言伝えておきたいポイントなのだった。
◆伝わりにくい文だったので最後の方を書き換えました:2018/06/30