ハケンについて、ナカマについて☆part1

少し前「ニートについて」で、社会の包摂性について「hatenaダイアリのキーワード」だの何だのと横滑りしつつ考えたわけであるが、派遣についても、やはり社会の包摂性とその前提である仲間感覚および仲間の存在と絡めて考えられそうなので、できるところまでやってみる。
≪ソース≫

☆1:文藝春秋8月号
 ■社会保障費一兆一千億円カットの衝撃
 貧困大国ニッポン ―ホワイトカラーも没落する
 もう限界だ。※このままでは社会の土台が崩れる※ 湯浅 誠
☆2:マル激トーク・オン・ディマンド 第378回(2008年06月28日)
 ■死ぬか殺すかまで若者を追いつめる労働現場の現実とは
 ゲスト:雨宮処凛氏(作家)
☆3:日テレ2008年7月18日放送分「私が総理大臣だったら」提出者:サンドウィッチマン
 ■1年間バイトやハケンを続けた人は正社員にします
☆4:派遣労働は労働者の権利と労働組合そのものを壊していく
☆5:書評(労働・フリーター・ニート)
☆6:国家・市場・家族の失敗

≪要旨≫

1:「仲間」は育つのか? もし育てるのならば、「仲間」もしくはコミュニティを育てる際の障壁とわたしが考える「贈答文化」について
2:逆に、仲間もしくは日本社会を去り、より個人化する方向についても考える

先週職場に行ったら☆1の文藝春秋8月号が置いてあって、誰かが「ぜひ読んでくれ」と置いて行ったとのこと。見るとこの号の特集が「批判の嵐にさらされる東宮一家。孤立無援の両殿下は今、何をなすべきか――」というもので、寄贈主が「ぜひ読んでくれ」と思ったのはこの部分なのだろう、傍線が多く引いてあるのだった。それで職場の誰かが読んだのかどうかは不明ながら、長く放置されていた挙句「シュレッダー行き」のカゴに移動となっていたため慌てて「もったいないじゃんよ!!700円もする雑誌の最新号!!」と内心叫びつつパクって来たわけであるが、帰って読んだら渦中の話題「派遣」について書いてあった。
ネットで見たら記事を書いた湯浅氏はすでにかなり活躍している方のようで、氏は「働く貧困層」に関して具体的で実際的な活動として「反貧困たすけあいネットワークを主催している「カンパ」。これにはもう本当に救われた気分に(このパターンが多いが)なったのだった。といっても、記事本文を読めば分るとおり、ことは根深く構造的なものであるから、カンパをすれば解決というものではなく、政治や政策レベルで根本的に考えないとダメだ。
記事の内容は、
「ホワイトカラーに迫る穴」「勝ち組みなどどこにもいない」「小泉改革で『底辺への競争』激化」「『再チャレンジ』の嘘」「日本型経営も崩壊する」「『気づけない貧困』が足元に」の6部分から成る。詳しくは本文を読んでいただくとして、数字として
 ◇生保受給者=1995年に88万人だったのが155万人
 ◇貯蓄ゼロ世帯=2000年の12.4%から2006年には22.9%
 ◇非正規雇用=現在33.5%
 ◇日本の社会保障は非常に薄い。2003年の調査では、GDPに占める社会保障給付費の割合は、17.7%、EUの平均26%を大きく下回っている。ちなみに主な国を参照すれば、フランス28.7、ドイツ27.3、イギリスが20.1で、アメリカ16.2である。EUの水準と比べると、43兆円も少ない。
と挙がっている。アメリカが日本より低いことの解説はちょっとしかなかったが、「社会主義国のようになるのがイヤだから」という理由で健康保険制度を充実させたがらない(via:シッコ)のと同じ理屈かと思われる。こういうデータがあるから日本の自民党とか官僚?とかも真似しているつもりなのかもしれず、本当にはた迷惑なアメリカであるが、アメリカと日本はその精神性に違いが大いにあると思われ、少なくともアメリカは「自由だぜ」と思っていると思われるが、日本人はさして自由という楽しさや開放感を得ている感じではない。これで「アメリカだって低いのだから」と言われたらかなり困る。
記事の中でただひとつ違和感があるのは、「企業、家族、地域社会によるセーフティネットが働かなくなった」(というか破壊された)ことが繰り返し問題視、悲劇視されている点だ。まったくもってその通りだとは思うが、企業、家族、地域社会によるセーフティネット(宮台氏が言うところの「社会の包摂性」かと思われる)が、それほど良いところばかりだったとは思えないのだ。色々な考え方があり感じ方がある(あった)だろうし、時代によって違い、たとえば70年代生まれだったらそもそも社会に包摂性があったことすら知らないかもしれないし、50年代生まれなら、その古き良き面をよく知っているのかもしれない。けど、わたし(62年生まれ)にとっては、個人を鋳型にはめる抑圧者としての面が大きいのだ。ことに「企業、地域社会」は独特の儀礼作法を持っていることが多く、何かというと贈答品のやり取りをするのであるが、物を贈る行為が純然たる好意であるならともかく、要するに何らかの取引、政治(と化しやすいもの)であり、実に見えにくいルールにのっとっていて、結果として、贈られてそのままにしておくとひたすら負債を背負った形となるため、何かを贈り返さねばならないわけであるが、そのルールにうまく乗れないと心理的な負担はとてつもなく大きくなる。
実際問題、このせいで精神に負荷がかかりすぎて病んでしまう人って多いのじゃないかとわたしは勘ぐっている。(「近所の人がうわさをしている」というタイプの幻聴や妄想はとても多い)
ちょっと変な引っ張りながら面白いデータをみつけた。
ニューヨーク・タイムズの記事検索からビジネスのヒントを得る」というもので、アメリカ人のgiftに関連した行動形態を検索から導き出したものだ。それによると、アメリカ人がもっとも贈り物をする相手は子どもであり、物としては本である事が多く、時期はクリスマスだ。日本では交際中の男性からプレゼントを貰うのを当たり前と考える風土があるが、アメリカ人はガールフレンドにもさほどプレゼントはしない。
また、先日レビュウを書いた『暴力はどこからきたか』の最後の方に書いてあったピグミー族の狩猟で獲物を持ち帰る際の作法はスバラシイもので、獲物は広場にソッと置かれるので、誰がしとめたか分らないようになっている。このことは、獲物をとって仲間に分け与えることが、感謝を(本人にその気がなくても)強要し、仲間の抑圧者になってしまうことを回避するための知恵だろう。
獲物を持ち帰った英雄になることは、その時はよくても長期的にみれば、嫉妬や劣等感の温床になるし、政治に利用された挙句に人間関係を腐敗させるし、何もいいことがないことを、知り抜いた挙句の知恵だろう。たぶんそれに、一番大事なことを、「皆で食べ物を分け合い一緒に食べる」、という一点に絞っているのだ。
…………………………………..>>>>つづく
(この続きは後日)
※から※の部分、雑誌では「このままでは日本型経営も崩壊する」となっている。(ネットのオフィと違う)