アキレスと亀 / media:映画館で観た映画
映画館に行く車中、「はちゃめちゃでも文句言うなよ」と一緒に行ったオットットに言われた。
「どういう意味?」と尋ねると、『監督バンザイ』がメチャクチャだったんだよなぁと、煙草をプカプカふかしながら言う。
オットットはかなりのたけし映画フリークなため、たけし映画の悪口を言われるのを警戒してあらかじめそんな事を言ったのだろう。
なーんでわたしがたけし映画の悪口を言うのよ? そりゃ全部観てるわけではないからえばれないけど、わたしだってファンなんだから、観る前から気分悪くなること言わないでよネ、しかも副流煙盛大に出しながら。
それ以前に煙草、どうやったらやめてくれるんだろう? ニコレットやニコパッチを使えばやめれるからって、口を酸っぱくして言っているのにいつまでもやめようとしない。だから今日だって、シアター前のホールの、あの薄暗くて楽しい空間(禁煙)にいられなくてコーヒーショップまでやってきた。しかも普通の席はダメで、あからさまな被差別空間である喫煙者専用コーナー(透明な壁に囲い込まれている。トイレの側。椅子は固い)に追いやられた。「もう、わたしあそこにいたかったんだよ!!」ガマンがならず言うと、「なんでそう文句ばかり言うんだよ!!!」と不機嫌になる。「文句じゃなくて普通に意見だよ」と言い返すと、「俺は一生煙草はやめないっ。一生な。一生ぜったいにやめないぞ!」
と、どうでもいい宣言。
そんな険悪な時間つぶしが小一時間続いた後、時間になったのでやっとシアターに入れた。
☆ ☆ ☆
内容は三部構成とでもいうのか、主役の真知寿(まちす)を、子ども時代(吉岡澪皇)、青年時代(柳憂怜)、中年時代(ビートたけし)と、三人の役者が演じ継ぐ。宣伝用のコピーは、「夢を追いかける夫婦の物語」と「スキ、だから スキ、だけど」で、それを見ても分る通り、夫婦がひとつの主題となっている、のかもしれない。
ただし夫婦といっても、並みの夫婦ではない。並みの夫婦は、ツインとなりイトナミの結果として子を成し家庭というユニットを築く。このプロセスをもって生き甲斐とし、愛情をもって育てあげた子を生きた証しとする。
ところがこの夫婦は、子を成して云々というよりもツインの方に重きがあり、家庭というユニットには重要性がないらしい。もしもこの作品にたけしが自己を投影しているのだとしたら、親としての懺悔録、露悪的な告白、どこまでぶっちゃければ気がすむんだって話である。しかも真知寿の妻である幸子(若い時は麻生久美子、中年以降樋口可南子)も、真知寿の芸術に理解を示すのはいいが、理解と付き合いが良すぎて頭が変としか思えないのである。ラストシーンでは当方、「なんで妻、帰ってくるんだよーーここで!!」と深い衝撃が沈殿した。(けど半分以上は諦めていた)
そんなで何となく連想したのは、ジョン・レノンの言葉で「ひとりで見る夢はただの夢、ふたりで見る夢はリアル」。
それにならって「ふたりで狂気ならそれは正常」なのかもなぁと思った。
作品の映像的見所は、子ども時代の頃の戦後間もない風景を再現しているところ。町や木造の小学校、室内の雰囲気など、とても丁寧な作り。また、父が亡くなった後に連れて来られる田舎の、風の鳴りつづける光景。ずーっと風が吹いているところ、そこを走るバス、風景はセピアに近いほど色調を抑え、対照的にバスや電車の色彩は鮮やか。作中多数登場する絵画作品の色も、ハッキリ強調している。
絵画に取り付かれた真知寿なので、多数の絵画作品が出てくる。画商も出てきて、画商のセリフやその絵画の扱いから、この映画は芸術を皮肉ること、もしくは、日本の美術界への批評を込めているのか、とも思えた。
というのも、うちの中学生の子どもが画家になりたくて、高校もまだなのに、今から将来は美大や芸大に入るつもりでアート系の塾に行き始めた。それで親として多少調べて行ったのだが、日本の美術世界ってあまりいい話がない(閉鎖的?らしい)。第一、日本では絵画作品(西洋絵画)を評価する基準など「ない」とも言う。基準がないなら何があるのか?? さっぱり分らない。あえて言えば海外で認められること、だろうか? 実際映画中でもニューヨークに行って成功した仲間が出てくる。
真知寿が付き合い続ける画商(大森南朋)は、真知寿との会話としては面白いことを言う。けど、画家を育てる立場としては、芸術に対する自分なりの基準とか価値観、情熱などがあるわけではない。場当たり的にいろいろ言うけれど、素人でも言えるようなことばかりだ。
また真知寿は大量の絵を描くので、次々画商に見せに行くのだが、これがまたひどいのばっかでまさにジャンクアート。観客としてジャンクな絵画をずっと観つづけなくてはならなくて、かなり苦痛だった。ゴミをゴミというのだからあながち悪い画商にも思えない部分も多く、やはりこの映画は日本の美術界の批判は主眼になく、芸術家真知寿のどうしようもなさ、描いているのかと思う。
長時間におよぶジャンクアート鑑賞がもたらした認知のゆがみというか、美意識の軋みは、この映画を鑑賞するうえで奇妙な効果をもたらした。青年役を45才の柳が演じ、中年役をすでに老年に近いたけしが演じるゆがみが、自然に受け入れられたのだ。今までのたけし映画の清冽な印象から遠く、「老いる」ことが背中を曲げさせるようなゆがみが映画全体に漂う。「たけしも年とったな」そんなせせら笑いを、自分からやってしまったかのように。いったい、美とはなんなのだろうか。さっきジャンクアートとわたしは言ったが、誰か権威のある人が同じ物を芸術と認定したら、ジャンクと判定した自分への自信は揺らぐ。
いったい美とは、芸術とは?
解らない。そのくせ映画中で美人とブスは厳然と区別(差別ともいう)されていて、いっぺんの迷いもない。ブスはブスなのである。どこらへんがブスなのか。解らないが、確かに女のわたしが見てもブスはブスに見えるから不思議だ。むしろ人類の七不思議といっても過言ではない。
ところで、ジャンクかどうかはともかくとして、真知寿の絵画は色彩に頼りすぎているきらいがある。
色がどう見えるのかは、必ずしも人類普遍的に一定したものではない。
しかし、ビートたけしがそのことを知らないわけでない(確か以前インタビューで言っていた)。
そう考えると、出来上がった作品を誰がどう見るかよりも、うちなる衝動の方がメインなのだろうか。
全体によく分らない。けど、いいや。
途中、赤い色彩に覆われるところが凶暴な画面で、わたしは耐えられず目をつぶっていた。
今回、色々な人が死んだけど、この場面が一番怖かった。
(目をつぶっているあいだにやたらと進行したので、ストーリーを把握しきれていない)
『アキレスと亀』には、「アキレスと亀の数学命題」にのっとったラストが用意されている。
命題による問題提起は冒頭にも出てくるので、最初と最後できちんと辻褄を合わせているのだ。
もっともわたしには、どう辻褄が合ったのか解らなかった。
オットットは観終わったら、間髪おかずソソクサと駐車場に向かった。よほど煙草を吸いたいのだろう。
駐車したままの車中、しばらく『アキレスと亀』の話しになった。
モウモウと煙がたちこめる車の中でわたしが、「あの最後の意味、わかんなかったなー」と言うと、「あわかんなかった? 俺もわかんなかった」となぜか安心したように言う。
なんだわかんなかったのか、と落胆しつつも、ふたりでわかんないならそれが一番険悪でなくて平和だな、という感じだった。