福田君を殺して何になる —光市母子殺害事件の陥穽— / 増田美智子

わたしの手がもつ『福田君を殺して何になる』うちが取っている新聞は東京新聞なんだけど、何ヶ月か前の小さなコラム欄に、〝光市母子殺害事件の犯人を実名で書くルポルタージュ本が近く出版される、その著者はごく若い新進の女性ルポライターである〟と、書いてあった。
以来、早く読みたいと思っていた。
読みたい理由は次のことだ。


・どのような人間だったらあのような凄惨なことが行えるのかを知りたい。
この本には複数の問題点があるが、わたしなりに上記の答えを得ることが出来た。
そういう意味で読んで良かった。
■本の構成
本書にはだいたい四つの要素がある
1:「福田君」の人間像掘り下げと、犯罪へ至る経緯
2:「福田君」に付いた弁護団について
3:ルポルタージュという仕事。著者自身のパッション
4:今枝弁護士による解説
付:被害者遺族本村さんの考え—死刑制度の是非ではなく、死刑にいたるような犯罪を防ぐにはどうしたらいいのかを考えてほしい—※
※本村さんは著者の取材には応じていない。つまり、この本の構成要素にはなっていない。が、著者に求められて、きちんとした返答は行っている
■「福田君」の人間像掘り下げと、犯罪へ至る経緯
レビュウによっては、著者が被害者遺族にも「福田君」にもどちらにも肩入れせず公平に書いている、とあるけれど、著者は「福田君」に充分に肩入れしている。肩入れしないでここまでは書けないと思う。事実今これを書いている自分も、今にも「福田君」に肩入れするであろうことは分かっているので、正直怖いくらいであるけれど、目的はただひとつ、「死刑にいたるような犯罪を防ぐにはどうしたらいいのか」を考える手立てであることは、前もって言っておく。
著者が、「福田君」の人間像を読者の前に現出せんと差し出したモノはまず、直筆の手紙(の写真)とその全文だった。
これは、ビジュアルとしても文章としてもインパクト大だった。わたしはかなりドン引きした。一面識もない相手(著者の増田美智子氏)にいきなり「みっちゃん」だの「外でデートとかしたかったね」だの「あなたが幸せに」だの書き送る幼稚さとキモさにゲンナリした。しかし同時に、著者が示したこれらの手紙に対する分析は、しごくもっともな内容だったから、読み進む上で欠かせない著者の感覚への信頼はもたらしてくれた。ここで最初から「福田君」に迎合的だったら読んでいられなかったろう。
次に印象的だったモノは、「福田君」の中学卒業アルバムの写真だ。
穏やかに微笑む、憎めない小僧、という感じの写真。
「福田君」の生い立ちに「父の暴力」「母の自殺」という不幸なキーワードが散見することは、本書を読む前から知っていた。しかしキーワードだけでは漠然としていたところ、実際の具合がどうだったのか、本人が語った話や、元同級生の証言などで具体的に浮かび上がった。
父の暴力は、まず母に向く。母は、抜けてトンチンカンなことが多く、父を激昂させやすかった。
子どもは、母をかばい止めようとする、すると父の暴力は子へも向く。
それとは別に、暴力で子を躾けることもあった。
しかし父は、子を無視するわけではなく、暴力という手段であれ関りはある、ということで、「福田君」は必ずしも完全に父を憎みきっているわけではない。実際、「福田君」がヤンキーに大やけどを負わされたときは、相手の親に抗議に行くなど父親らしいところも見せたことがある。
一方母親の方は「福田君」が中学1年生の時に、「夫の暴力を苦にして」ガレージで首を吊って死んでしまった。
そして、ここが重要なのだが、元同級生らの証言によれば、母親が自殺した後も、「福田君」はさほど落ち込んだ様子はなく、普通にすごしていた。
ちなみに学校生活において「福田君」は、苛められるようなことはなかった。ある種の先生には好かれてもいた。「福田君」はどちらかというと割りと人なつっこい性格をしていた。(「常に死んだ目をしていた」という証言もあるので、人によって言うことは違う)
「福田君」の家庭環境は、子どもが生育するのに不適格なものであったが、本人は周囲に「暗いやつ」、という印象は与えていない。その理由について
<以前教室で暗くしていたら「オレたちのせいで暗いのか?」と問われ、以来、暗くするのはやめようと思った。自分はピエロのようだった>という意味のことを語っている。
「福田君」はいつでも明るくひょうきんに振舞った。いくらひょうきんでも人気者になるほどではないが、周囲の雰囲気を悪くしないよう注意ぶかく生き、暗い態度を取らず無害な人間だった。
だから、ガレージで首を吊っている母の遺体を、父や祖母の次に「福田君」は見たのだが、そのような大きな出来事があったあとも、暗さを見せることはなかった。
中学生の「福田君」は、母が自殺したとき、何をどう感じ考えたろうか。「福田君」は、母の自殺を、父による殺害ではないかと疑ったらしいが、それ以外はどうだったろうか。ショックを受けなかったわけはない。しかし、明るく振舞うという圧力が強かったこともあり、通常ならうつ的に塞ぎこむところを平板にやり過ごした。
もしかしたらこの時、「死」に対する感性の基盤はゆがみはじめていたかもしれない。
■「福田君」に付いた弁護団について
「福田君」に付いた弁護士および弁護団は何回も変わっている。1999年の事件の年に検察が死刑を求刑したあと、
一審(2000年。無期懲役判決)
二審(2002年。一審を支持し無期懲役。検察が最高裁に上告)
最高裁判所(2005年から2006年。二審判決を破棄し、広島高裁に差し戻し)
広島高裁(2008年4月22日。差し戻し控訴審で死刑判決。即日弁護団は上告)
四回法廷が変わるたびに変わっている(実際はそれ以上)。しかも人数もどんどん増えている。
ごちゃごちゃたくさんいるので把握は難しいが、少なくとも最後の弁護団は、善悪でいうとかなり悪玉に近く、その理由はいろいろとあるけれど、第一に、弁護士として職務上「情状酌量」から「無期懲役」にもっていかねばならないところを大失敗し、被害者遺族はもちろんのこと、世論全般を死刑求刑に向けて火をつけてしまった。あんなケダモノ最初から死刑だからざまあみろ、という考えならば、弁護団の失敗は好ましいことかもしれないとはいえ、しかし、いつ自分、および自分の家族が境界の向こう側に間違って行ってしまって、弁護を必要とするか、その可能性はけっしてゼロではないことを思うと、こういう弁護士のありように不安が募る。たとえば、被告の窓口であり被告の代弁をしている、と言いつつ、被告を操り人形のようにしている。
そんなのが弁護士界の標準だとしたら、弁護を受ける権利も糞もあったものではない。
■ルポルタージュという仕事。著者自身のパッション
「福田君」を仮名で呼んでいては実際の犯罪が見えてこないと、実名で書いたことはそれ自体はいいとしても、福田君という呼び方はわたしには抵抗がある。「君」はよく国会で議員を呼ぶときにもつけているくらいだから、そうと限らないかも知れないが、親しみを込めているように感じる。「福田君」は、人を殺めるという、超えてはならない一線を越えてしまった人だ。いくら情状酌量の余地があるとしても、刑を終えるまでは少なくともわたしは福田君とは呼べないし、思えない。
ただ、そのように呼ぶ関係を築いたからこそ、これだけの情報を引き出せたのだとしたら、非難ばかりはできない。
本書は、「福田君」が犯した犯罪とその生い立ちと、「ドラえもんが生き返らせてくれる」「魔界転生」といった不快な発言、それに、「不謹慎な手紙」(マスメディアが公にし、これもまた死刑を求める世論形成に役立った手紙)などなどの、バラバラのピースをつなぎあわせ、ひとつに結びつけ得た。もしくは、結びつける材料を提供した。
例えば:
「福田君」は、母の自殺時にも周囲に合わせ明るく振る舞うばかりで、つらいことを直視して乗り越える、という形の成長をしていない。などの要因があり、幼稚な性格のまま止まっている。ゆえに一方的に被害者母子に親しみを持ち、相手が自分に親しみなど持っているはずもないことに思い及ばず、被害者宅にのりこみ、一方的に抱きついた。被害者は驚愕と恐怖のため激しいパニックに陥った。パニックは容易に他人に感染するものであるから、加害者もパニックに陥り、普段でさえ幼稚なのにさらに退行現象が起き、常識を大きく外れる「荒唐無稽な」取り散らかった思考の断片に突き動かされ、次々に凄惨の上に凄惨を上塗りしていった。
・・・といったことを推測した。
■今枝弁護士による解説
今枝弁護士は、橋下弁護士(現大阪府知事)が興奮して攻撃していたことで有名な人物。
今枝氏の顛末に関して本書に詳しく書いてあるわけではないけれど、「福田君」が全幅の信頼を寄せた弁護士。(のちに解任)
自身も関連書籍を出版している。
今枝弁護士が最後に解説を寄せているため、この裁判の流れがよく見えた。
たとえば、この裁判は、一審、二審、最高裁と場面が変わるが、今枝氏は、それぞれの裁判官の意図を解説してくれている。それに、裁判というものが、こんなにもその時の世論の動き、その時の、被害者遺族の意志表明に左右されるものだとは、知らなかった。
また、事実関係重視型の弁護と、事実関係の違いには目をつぶっても情状酌量を最大限引き出す弁護と、二種類あることも。「福田君」の弁護団は、前者を取り、けれどうまく弁護として組み立てられなかったため、誰の理解も得られなかった。得られないばかりかまったく逆の効果を発揮した。
▼最後に
最初の疑問の答えを形作ることはある程度できた。
それでいろいろと考え、思ったのは、「福田君」が死刑になるかならないかなど、ある意味どちらでもいいということだ。
「福田君」は、愛に飢えたちっぽけな馬鹿者にすぎない。
もっとずっと重要なことは、被害者の弥生さん、そして赤ちゃんだった夕夏ちゃんは、「福田君」ごときに汚されていない、ということを、きちんと確認すること。
犯罪現場の絵面が凄惨だったからといって、血まみれのイメージばかりが焼きついてしまっているが、ふたりの命と魂は、何者にも汚されていないし、おとしめられていない。
最初の無残なイメージから、少しでもふたりが解放されればいい。
追記:
死刑級の大きな事件を起こしたからこそ、色んな人が取材に来て本を出して、その境遇や心理を詮索して、つまりは深く考えるけど、そうでなかったら、どれほど苦しい境遇を子ども時代から生きていようと、誰も振り向きもしないし誰も取材に来ないし誰も関心をもたない。
というのは、おかしくないだろうか。
ジャーナリストは、独自の問題意識を立脚点にして、日の目を見ることのない場所にスポットライトを当て社会化する、ひいては犯罪に結びつく要素を共有する。「死刑もの」に比べ、それじゃ金にならないのかも知れないが、殺してからじゃ遅いのだ。
追記2:
—–文中わたしの推測が入りましたが、あくまで可能性として考えれられる一バージョンにすぎませんので真に受けすぎないでください

荒井由実 ひこうき雲


光市事件から話しは変わりますが…
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