子育て、ダメ出しは逆効果
あの日から時計の針が止まったままなのが他にもあった。
今、日本で一番コメントを集めているブログ、
「さなのHappy Diary(-3゚)」・・・・・
再開するっぺー
2008-04-23 00:56:36
テーマ:ブログ
もう!
今日はほんとにほんとに腹立つことありました。
もうどうにでもなれい、ばかやろう!的な感じです。
また頭が痛くなってきたのでここでおわります。ばいきん★
2007年12月30日から2008年4月23日までの、一年も続かなかったブログ。
彼女がこのブログを始めた動機は、一番最初の記事によれば「どうしても本音を書きたくて」で、書いた時刻は12月30日の深夜00時。
同日夜があけて朝になり、その間も起きていたのか、それともいったん眠って起きてのことか、8時にもアップしている。内容は、この一年間に起きた桜子ちゃん出産をはじめとしたさまざまな出来事と、つい一週間前に結婚式を「挙げさせて」もらったことと、挙げさせてくれた「お父さん」「旦那の両親」はじめ、いろいろな人への感謝の念だ。
つい数時間前に「本音」を書こうとし、自分を人に嫌われるのを恐れる八方美人ではないかと洞察していた割には、「本音」というほどではない内容を書いている。彼女が、誰に向かってこのブログを書き始めたのかは分からない。
自己紹介として「趣味は料理です。/ でも得意ではありません。 / あくまで趣味なだけです。」と妙に硬い調子で綴る。これはちょっとひっかかる書き方だ。夫と子どもがひとりいる専業主婦なのだから、料理は日々の生活の一部であり、かなりのところ「しなければならない」「避けられない」「義務」に近いものだろう。なのに、頑なに趣味という位置づけにこだわるのはどうしてだろう。「あくまで趣味なだけです」ということは、仕事ではないし義務ではないと言いたかったのだろうか。それとも「でも得意ではありません」とあるということは、仕事や義務としてやるものは上手に手早く完璧に「得意」でなければならない、自分はそのレベルに到達していません、と言いたかったのだろうか。
以降、料理の話は本当に多い。
実は料理を作ることが好きなのではなくて、自分の作った料理を食べてもらうのが好きなのだと、自己分析している箇所もある。
ブログは途中から友人(ママトモ?)も見るようになったらしい。
自分の本音が見られている、嫌われるのではないかと随分緊張している。
読む限り(削除した箇所があるのかも知れないとしても)、およそ本音といえるほど自分を露出している感じはないのだけど、本人にとっては、これくらいの程度でも相当に曝け出している感覚だったのだろうか。
やや本音を感じさせる
「さくらこがブログを書いてるわたしをとことん邪魔してくる!憎いぜ」の一行も、そのあとにハートマークの絵文字を入れるほど気を遣い、優しいママと見られようとしている様子。ブログはほぼ全編この調子だ。
最後の日彼女が書いたのは、怒りの感情であるけれど、ここでも怒りらしい感情の表出や自己表現はされていない。そして「また頭が痛くなって」しまった。
ストレスが発散できず頭痛という身体症状が現れている様子だ。
想像するにこのブログは、旦那に大学をやめてもらったり、無理に挙式を挙げさせてもらったりなど、考えられ得る幸福のアイテムをすべてゲットした後に始まっている。しかしそのことの記録や自慢が目的ではなく、今だから曝け出せるようになった(かもしれない)「本音」を、文字にしてあらわすことだった。
ひたすらに幸福な結婚や家庭、優しいママになることを求め続け、念願が叶い「Happy」になった。
しかし、Happyになった後に待っていたのは、長い長い日常生活だった。
そこで彼女がやるべきことは、料理を作るなどをはじめとした、与える行為であり、思うように与えることの出来ない自分という現実と向き合うことだった。
「Happy」は手に入れてしまったから、これ以上「Happy」を求めることに逃げ込むことはできない。
そこで初めて出会った自分。
つまり彼女が真に求めたのは、結婚や育児といった幸福ではなく、自分の本音、すなわち本当の自分自身と出会うこと、もしくは本当の自分自身になることだった。そして、本当の人生をはじめることだった。
…と、言えはしないだろうか?
が、彼女は失敗した。
理由は、日々感じる「本音」が、率直にあらわすには「嫌われる」おそれの多いものだった。
育児面倒くさい、子どもがうざい。など。
子どもは可愛いだけのものかと思っていたら、まるで違った。
ブログにあるように、PCをいじっていれば必ず妨害してくる。
母親が熱中しているものを必ず妨害するのが、子どもというもの。
子どもは、母親から自分への関心を奪うものを何よりも嫌う。
ひたすらな母への愛が、愛ゆえに一番可愛くない形で現れる瞬間。母にとってはサツイの芽生える瞬間でもある。
本来なら、そんな自分の感情にオソレをなしてならず、自分を許すことも大事で、また気を取り直して心機一転しなければドツボにはまって出られない。
見たところ、彼女はズボラな人間なのではなく、料理も育児も完璧志向であり、それゆえに他人に助けを求めることも出来ず、料理の気力がないなら卵ぶっ掛け飯とか、コーンフレークとか、レンジでチンするやつとか食べさせればいいものを、お菓子しか与えないなどという極端なことをこのブログ後、事件前はやっている。
第三者に助けをもとめればおそらく「母親なんだからそんなじゃダメでしょ」とダメ出しされることは本人も分かっていた。だからこそダメな姿は見せないと緊張することになるが、それがまた苦痛だろう。
今後、行政なり、何らかの地域の人が「ダメ母」を援助していくときは、ダメ出しは逆効果であると覚えておいた方がいいかもしれない。むしろ、ダメ母候補だからこそ子どもを作ってしまった、生んでしまったとも言え、そうでない女性は計画的であり、愛情にさほど飢えていないがゆえに後先考えず妊娠などしない。
しかし、ダメにも限度があり、とっとと母親から子どもを取上げて施設にあずけなければならない事態も多くなる。どこらが取上げる目安になるかだが…
ともかく、子どもを育てるのは母、などというノドカな固定観念は捨てなければ。
そして、母の愛は完璧であらねば、などという強迫観念もなくなっていかねば。
—
唐突で脇にそれるけど、日本の宗教である神道が「死」と「お産」(や、生理の血)を忌むことに、根本的な理由の一端がある気がしてならないんだけど。
神道とかって、ほんと、ふざけるなーーーっ!!!!って思う。