映画『ソーシャル・ネットワーク』、「フェイスブック」が日本で普及するには?
★アメリカ映画『ソーシャル・ネットワーク』を観てきた。
内容をかいつまんで説明すると、世界的SNS「フェイスブック」の創業物語りで、創業からこっち色々あってねー大変だったよ、という話であることは宣伝通りで間違いない。見所は、リア王ならぬリア充王みたいなハーバード大学ボート部所属の超イケメン双子くんたちや、ハーバード大学名物の「マシンガントーク」の応酬や、ナップスター創業者ショーン氏の一癖あるかっこいいスノッブぶりや、ちょっとでも「価値ある」相手に群がっていく動物的なエリート層(というのかアメリカ人全体なのか?)の生態やらだ。なので、パソコン上の話なんか映画にして面白いのかな? と疑問だったけど、とりあえず生々しい人間ドラマであったこともあり、退屈せずに見れたし、特にラスト1分間のシーンは、「この場面が撮りたくてわざわざ『フェイスブック』の映画作ったんだな」と思わせる、なかなかなかなかに味わい深いラストになっているので、見てそれほど損はないと思うし、第一に、アメリカ人の精神性といったものを学習できる気のする映画となっている。
ちなみに上の写真は、この映画の中でラストシーン以外では一番いいなと思ったシーンだったので、拝借してみた。
★『ソーシャル・ネットワーク』の興味深い感想、めっけ
家に帰ってきて他の人がどういう感想をupしているのか調べてみた。すると、映画『ソーシャル・ネットワーク』に見る「ネットとリアル」という記事をみつけた。アドレスは newsweekjapan.jp 内だ。ちなみにわざわざこういう書き方をしたのは、「harvardドットeduに載っている男なら世界中の女が近づきになろうとしてアクセスしてくる」※という、クダンの双子くんたちの台詞にならった。もちろん当方の場合newsweekjapanドットjpだから見たというわけではなく、検索でひっかかった。それはともかく、この記事には「なるほどー」と感心したので紹介する。
そう考えると、日本のビジネス社会における「リアル」というのは、あくまで個人と言っても「法人格の代行者という仮の存在」が単位になってあれこれコミュニケーションを行っているだけなのであり、ビジネスの世界における「個」といっても決して「リアルな個」ではないということになります。そのような「リアルでない個」の牛耳っている「リアル」の世界に対抗して精神の自由や、人生の本当の選択肢を探してゆかねばならない若者が、とりあえず「匿名」という形でネットに参加することで「リアルな自分」を守っているというのは一種の必然ではないかと思うのです。
私は日本のSNSの状況、特に匿名中心のコミュニケーションが主流になっていることは、決して良いことではないと思います。ですが、その責任は「実名で語る強さのない若者」にあるのではないと思います。法人格に包み込まれた虚構の個しか提示できないくせに、法人の力を背景に影響力行使を続ける「リアルでない個」、これを生み出し続けているビジネス社会(あるいは地域社会や、学校内社会、政党など)の集団主義カルチャーにまずその責任があるように思うのです。
わたしの知っているある若者は、本名で本音をupしていたが、いざ就職・面接という段になって本名を削除することにした。その若者は別段反社会的なことをupしていたわけではなく、反骨精神あるごくまっとうな批判ををしていただけなのだが、採用前に向こうが名前を検索する可能性があった。
若者はどうしてもその企業に就職したかった。憧れの名門企業だから。
奇妙な話である。それこそ映画内にあるような「動物虐待」の疑いを持たれる何かがupされているなら削除するのは分かるが、その若者は、自分の考えをオープンにしていたに過ぎないのだ。
わたしはアメリカの事はよく知らないが、たぶん上記記事は、相当深い考え(本音ともいう)をオープンにしあった上で、企業内でもなんでも関係を作っている、ということを言いたいのではなかろうか?
ところが日本はそうではないから、どうしても「匿名」にならざるを得ない、ということかなと思った。
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※多少記憶違いかも。そうだそうだ、この段階では「世界」ではなくて、近隣の大学の女子大生たち、くらいの範囲だったかな??