困っている人 / 大野更紗
前から気になっていた本なので、買って読んでみた。
概要はamazonを見ていただければ、110件ものカスタマレビューがほぼ全容に近いものを語り尽くしている勢いだ。中には無論、☆1個の辛口批評もある。それはそれで「なるほど」と思う辛み調味料加減で、たとえば、著者の「独特のユーモア」への違和感や、自己主張過多への嫌悪感や、検査のため入院した病院を重い障害をおった他患がいるにも関わらず「最果ての地」と喩えることや、出先から電話を主治医にかけるなど医師の私物化と思える行為や、あるいは両親への敬意の少なさやパパママと呼ぶ幼稚な態度への不快さなどなどである。
どれももっともはもっともなのであるが、特に興味をひくのは、著者の「独特のユーモア」というのか、文系女子的なオタッキーな言語遊戯というか、サブカル的?というのか、自分の言語空間を既成のお涙頂戴、既成の問題意識構造に服従させない抵抗と自由への嗜好というのか。
いや、とかなんとか言うよりも、ああいう風に書く事が彼女の生への原動力なのじゃないか。どんな状況でも活発に脳が活動し言葉をつむぐ(その場でつむいだのではないかもだが。お尻が溶け落ちたりとか激痛を伴う事象に次々と襲われるのだから)、その時に予想外・想定外の概念というのか言葉が産声を上げる。楽しい。
その意味が通じない、面白くない、と言われるとこれは…
というモンダイは、ことによれば誰もが抱えているのではないかと、感じる。
誰もが執筆家になった–たとえ最短140文字であろうとも文は文である以上–現在ではとくに。
また、こういうインタビューもみつけた。
☆マンモスTVのインタビュー <「言葉の使い勝手が悪い」とはどういう意味ですか?>
10代とそれより上の各世代とでは、消費している情報もコンテンツもぜんぜん違います。互いの層を行き交うコミュニケーションが断絶してしまって、共通の言語がない
☆ ☆ ☆
その一方、本書にはなまなましい肉声としてのリアルな提言がある。
p.212
難民の友人たち、彼らはみんな、自らが置かれた境遇というものをよく理解していた。わたしになけなしの食材でごはんをごちそうしてくれることはあっても、わたしに何か過度に期待したり、求めたりすることは、一度もなかった。
じゃあキャンプの中でビルマ難民が願っていたものはなんだったっけと、記憶を蘇らせてみる。UNHCRの援助米。NGOの急ごしらえの病院。IMOのバスに乗り、外の世界へ出られない難民キャンプから公的に脱出する唯一の方法である、第三国定住プログラムで欧米へ出国していく姿が、脳裏をよぎった。
つまりそれって、「国家」。「社会」。「制度」。特定の誰かではなく、システムそのもの。
ひとが、最終的に頼れるもの。それは、「社会」の公的な制度しかないんだ。
著者はもともと友人が多いうえに、献身的な両親もいるので、最初は頼りにしていたのだが、だんだんと距離を置かれはじめてしまう。あまりにも難病の彼女の要求が多すぎて限界に来てしまったからだ。闘病中の病室でハッキリとそれを友人に通告までされてしまう。
当然といえば当然のなりゆきである。しかし、ものすごい難病の人相手ならそうではないかもしれない、想像を絶して苦しい状況の難民の人なら違うかもしれない、という感覚がわたしにはあったが、そうではないのだと、しみじみ分かった。
個人個人のつながり、絆だけではどうにもならないのだと思った。
おりしも今年の漢字一文字が「絆」だが、社会は、国家は、行政は、地方自治は、官僚は、
個々人の「絆」があるから何とかやるだろうなどとは、ゼッタイに考えてはいけない、ということだろう。
☆ ☆ ☆
他にも、彼女の社会相手の奮闘は目覚ましいし、医師としては優秀でも世間知らずも甚だしいがゆえに、迷惑な書類を書いてしまう主治医など、どうしたもんかねぇ? だし、制度の問題、手続きの問題、たくさん出てくる。(一女子の日記として、とてもLOVEなことも☆)
その他にも、瞠目ものの記述があった。
p.283
いつも先生たちは、「よくなっています」と繰り返し言う。一辺倒に言い続ける。これはお医者さんという生き物の癖なのかもしれない。
これは、<百万回の「よくなってます」より、一回の「よくやってます」>
と題された章の一節で、章にはさりげなく穏やかな調子でいろいろと書いてあるのだが、ぜひ全国の医師の方々、医療従事者に読んでほしい章だ。(本書ぜんぶがそうであるが)
実際「かんじゃさま」相手だとついつい「よくなってきたね」みたいに言ってしまうのは口癖みたいなものなのだ。かくいうわたしもそうであるため、さっそく昨日、とある女の子が「今日はさ、割とがんばったよ、そんなに看護婦さんにしつこくしなかったし」と、日頃訴えが多すぎてスタッフを困らせている彼女が言ったため、普段なら「よくなってきたね」的に言うところ、「そうだね、よくやったね、今日はがんばった」と応答した。
この応答でその女の子は、少し驚いたように、けれど納得した表情になったものだ。
「よくなっている」
のは、治療者の頑張りや能力技量と治療の成果のおかげなのは確かとしても、「よくした」主体としてその人を捉えなくては、間違いだろう。
どんなにがんばっているかは、なかなかに第三者はつかむのが難しいのだけどね…