二、先祖について
ようやく父から返事が来た。
といっても、期待していた、江戸時代あたりまで遡った家系図とかではなく、古い家族写真が同封されていた。(写真はうち一枚。1943年撮影)
右端の小学五年生の男子がうちの父で、左端が祖母。あとはわたしにとっての伯父さんたちと叔父さん、お叔母さんだ。
これじゃあ「親戚」ってことだから、ちょっと違うんだけどなあと戸惑った。
家系図といっても、何もエラい人とか人格者、町の有力者とか、そういう人が入ってなくても、「ともかく先祖ならなんでもいいから」と手紙に書いたんだけど、さほど名のある先祖はいないからと、家族写真にしたのか?
ちなみに、宮崎出身の母の実家では「ほら、これがうちの家系図だぞ」と叔父さんに見せてもらった紙があり、一番上が藤原鎌足だった。「わあ、こんな有名人が先祖なんだ」なんて高校生の自分は喜んだものだが、あとで聞くと、たいがいの家系図は藤原鎌足ではじまっているそうw
…今回はそういうふざけた先祖の話しじゃないのだ。
柳田国男は、そういう風に、先祖に格付けするような行為とは無縁なのが本来の日本人の先祖観と考えていた。
たとえば、近年だと、一個人の故人のために法要が何回も行われるが、固有信仰では、そのような霊はすでに祖霊集団に融けこんでいる。つまり神になっているのだ。(前回の引用を参照のこと) だから、故人のための法要は、亡くなって間もない頃には意味があるが、時間がたったらもう個人はない。さらには、先祖という場合、父系の先祖だけ考えられたりするが、そうとは限っていない。さらに、近年では、かつて有名だった個人ばかりが重視され、いつまでも祀られる特別な魂とそうでないのとが差別される。しかし、柳田国男はこう書いている↓↓
家で先祖の霊を一人一人、その何十年目かの年忌ごとに祭るということは、いかにも鄭重なように見えて、その実は行き届かぬことであった。家が旧くなり亡者の数が多くなると、短い生涯の主人などは時々は無視せられることがある。ましてや子もなく分家もせぬうちに、世を去った兄弟のごときは、どんなに働いて家のためまた国のために尽くしていても、たいていはいわゆる無縁様になってしまうのであった。それを歎かわしく思ったためでもあるまいが、以前の日本人の先祖に対する考え方は、幸いにしてそういう差別待遇はせずに、人は亡くなってある年限を過ぎると、それから後は御先祖さま、またはみたま様という一つの尊い霊体に、融け込んでしまうものとしていたようである。
(『先祖の話』)
今、わたしは引用するためにキーボードを叩きタイピングした。その過程で「あーーっそうだったのか!!」と気がついた。ほんとうに今、リアルタイムに。「短い生涯の主人などは時々は無視せられることがある。ましてや子もなく分家もせぬうちに、世を去った兄弟のごときは、どんなに働いて家のためまた国のために尽くしていても、たいていはいわゆる無縁様になってしまう」この一説、まさに上写真の伯父さんたちがそうなのだ。
まさにそうたって「家のためまた国のために尽くし」たりは、彼ら全然していない。真逆。伯父さんたち(膝で立っている後ろの三人)(長男、次男、三男)は、子供時代の父をさんざんと痛めつけたいじめっ子達。長男は父亡き後家業を継ぐか、それがムリでも長男らしい責任感を持たねばならぬはずが、家の金を盗む常習犯。いっとき徴収されて佐世保の工場で働いたときと、防空壕を掘った時だけマトモだったものの、あとは家族を苦しめていた。次男は今でいう引き篭もりだったり、暴力男だったり。三男もあれこれエピソード豊富に悪人。
そんなだから、口を開けば父は兄たちの悪口を言っていた。だからわたしも伯父たちに好感情はもっていなかった。三男以外の伯父とは会ったこともないし、生死も不明。
そんな兄弟達の写真を送ってこられたからどうしようかと戸惑ったのだ。この写真以外にも、父が生まれる前の、<祖父母と長男、次男、三男>のファミリー写真も送ってきた。まだ若かった頃の祖父母を見せたかったのかもしれない。実際、一番目を奪われたのは、若き日の祖母のなんともいえない愛らしい顔立ちだった。
けれども、ほんとうの父の意志は(ひょっとして本人も気づいてないかも)、悪人としか思えない兄貴たちであろうとも、亡くなって時間のたった彼らこそを供養してほしい、先祖と認識してほしい、という気持ちかもしれない。
そう思い至るまで、わたしは下の写真を用意していた。右奥の仏壇に気づいたからだ。仏壇の中にまつられているのは祖父のはずだ。1943年時点で仏壇におさまっている祖父は、やはり先祖の名にふさわしいと思ったのだ。その次が、わたしが高校生の頃に亡くなった祖母だろう。それで、このふたつに○を付け、先祖イメージを明晰にしたつもりになった。