一、先祖について
『遊動論 柳田国男と山人』を読んでからというもの、先祖のことが気になっている。
いつもなら、普通に真面目に本の感想をポストするところなんだが、アマゾンとブクログ見たら見事な感想が並んでいたので、そちらに譲る。今はともかく先祖だ。
特に気になるのは、「もう先祖はダメなのか」それとも「先祖は今もって有効なのか」というシビアにして世知辛い価値判断なため、ご先祖には先に謝っておく。ごめん(_ _)
それで先日、「もっと先祖のことを教えてくれ」と父親に手紙を送った。
返事がまだ来ない。遅い。ちゃんと答えてくれるかどうかわからない。なにせ父はすっかり老いている。もう細かいことは思い出せないかも。
といっても、父の両親についてならば、父の自費出版の自伝に書いてあった。
父の父は薬剤師で、斎藤茂吉の病院で働いていたそうだ。
わたしにとってのお祖父ちゃんのその人は、父が5歳の時に脳卒中で亡くなった。なので父もほとんど覚えていない。
写真を見たことがあるが、父によく似て目と目が離れて横に顔が広い。違うのは、父よりもふくよかで金持ちそうな印象なこと。
実際、茂吉の病院を辞めた後は、故郷の北九州市に薬局を開き、たいへんに羽振りが良かったそうだ。
つくづくそのまま順調に資産を増やしてればねー。今頃もっとリッチな暮らしができていたんじゃないかつう。子供にももっとリッチな教育を受けさせてやれたんじゃないかとか、考えちゃう。
あんまいうとゲスの極みおばさん。っぽいから黙っておくとして、あと面白いのは、
斎藤茂吉は歌人にしてせいしん科医だったから、今わたしがせいしんの病院にいるのと、どこかつながっている。奇遇というか、偶然というか? まあある種の必然というか。(看護職をすすめたの父だから)
そんなで、このお祖父ちゃんがわたしにとって一番身近な先祖といえるかも。
ただ、祖父母程度だと、あまり先祖とは言わない可能性もある。そこでよくよく読んでみた。
人は死ぬと御霊(みたま)になるのだが、死んでも間もないときは、「荒みたま」である。すなわち、強い穢れをもつが、子孫の供養や祀りをうけて浄化されて、御霊となる。それは、はじめは個別的であるが、一定の時間が経つと、一つの御霊に融けこむ。それが神(氏神)である。祖霊は、故郷の村里をのぞむ山の高みに昇って、子孫の家の繁盛を見守る。生と死の二つの世界の往来は自由である。祖霊は、盆や正月などにその家に招かれ共食し交流する存在となる。御霊が、現世に生まれ変わってくることもある。p.135
これが<柳田国男が推定する固有信仰>だ。