オープンダイアローグについて

昨年の6月に同僚と出向いた看護学術集会でたまたま「オープンダイアローグは精神科医療に何をもたらすか」という講演を聴いた。

講演者は斎藤環 筑波大学医学医療系社会精神保健学教授。という長ったらしい肩書きよりも、引き篭もりやサブカルに詳しい精神科医としてつとに有名のようだ。あとで調べたら著作物も多数あり。わたしも『承認をめぐる病』を読んだのだが、特に子どもの家庭内暴力に苦しんでいる親御さんにオススメだった。我が家も息子が家庭内暴力をふるっていた時期があり、その時警察を呼ぼうとしたことがあった。そのことに長く罪悪感を抱いていたので(我が子を警察にまかせようなんて、と)、この本を読んで、罪悪感をもたなくてもいいのだと教えてもらった気がして、安堵した。
日本精神科看護学術集会のプログラム集。その該当ページ

そんなこんなで当方、オープンダイアローグは完全に初耳だったのだが、試しに聴いたら、ぶったまげた。

何がたまげたって、それが本当なら革命的事象じゃないかと。19世紀の産業革命、20世紀のIT革命につづく、第3の革命と言っても少しも大げさじゃない。ただし前の二つと違う点があるとすれば「儲かる話じゃない」ということ。というと、ここでまた誤解されそうなのは、そして斎藤氏が冒頭で強調していたことでもあるのだが、オープンダイアローグは反精神医学でもないし(反精神医学とは、たぶん、せいしん病は存在しないと主張するやつ)、反薬物療法というわけでもない。

じゃあ何だ? 一言でいえば、オープンなダイアローグなのだ。
なんのことやら分からないだろうから、やり方を先に説明する。(うろ覚えの点もあるのでご容赦を)

精神的クライシスに陥った者が、家族に出現した。→ケプロタス病院に電話をする。電話は24時間待機体制だ。
専門チームは即座にその家に赴く。チームの人数は4人~6人くらいかな?
専門チームは医師と、日本でいえば男女混成のせいしん科のナース?たちで構成される。
精神的クライシスに陥っている人は、暴力をふるっているかもしれないし、ブツブツと独り言を言っているかもしれない。身体を壁に打ち付けているとか、叫んでいるとかいろいろだ。

ともかく、言葉で説得し落ち着いてもらうのが第一だから、安易に薬剤使用はしないだろう。
その後、椅子に座れるくらいに落ち着いてからか、チームはその人と関係のある、あらゆる人達を呼ぶ。
学校の先生、友人、親戚、お祖父ちゃんお祖母ちゃん。あと、昔馴染みの近所の人とか。
呼んで何をするかといえば、本人も加わっての対話であるが、しかし、コレと決まった話をするわけでない。
場には、ファシリテーターといって、対話をいわばコーディネイトする人がチームからひとり選ばれる。
ファシリテーターは司会とは違う。通常の対話の場だと、決まった人ばかりが喋り、決まった人はずっと黙っていることが多い。そういう偏りが発生しないように、対話の場を調整するのがファシリテーターの役目だ。
この対話に目的はない。
何かを無理に聞き出したり、問いただしたり、責めたりはない。どこへ向かうというのでもない。
ただ、話をする。
医師もいるが、医師が特に偉い存在としているわけではない。地位や年齢や性別等による上下関係はない。フラットな関係の中でひたすら話しをする。

時間にしてどれくらいか、たぶん、長ければ相当に長い。が、ある程度の地点でお開きにして、チームも呼ばれた人達も帰る。そして、次の日にまた集まるのだ。

次の日に集まり、そしてまた次の日に集まる。そしてまた次の日に集まる。集まって話をする。ただ話をする。
何日間くらい集まるのか? それでも一ヶ月は超えないとたしか言っていた。
一ヶ月超えないうちにその人は「発症」しないで落ち着いてくる。(→その後もスタッフがフォローするよう)

◆memoっていたスマホを紛失したため、記憶を頼りに書きました。「オープンダイアローグ」や「ファシリテーター オープンダイアローグ」で検索すると、良いページがたくさんヒットします。それぞれ自分の観点から説明してて、それも面白いですよ。