亡くなられた方々は、なぜ地域社会で生きることができなかったのか?fromシノドスを読んで
わたしも事件の起きた場所の立地を見て、まずそこを思った。
というのも、当方の現場でもよくこういう会話が交わされるからだ。
「もうあの人しょうがないから、山奥の○○に送っちゃおうよ」
ひどい会話に聞こえるから、ここだけのオフレコにしてほしいのだが本当だ。
誰もがそう言われてしまうわけではない。マンパワーがかかる、家族がいない、地域移行のプログラムの対象からこぼれ落ちている、といった特徴をもつ人が言われてしまう。
福祉というやつは、それぞれの地域の管轄で行われる。関東だと、東京にも神奈川にも埼玉にも「山奥」があり、それぞれの山奥への移動が検討されてしまうのだ。
会話が交わされるといっても、実際に山奥に行くことは滅多に無い。会話が交わされたけでも怒られそうなので勇気を振り絞って今これを書いているのだが、会話くらいは許してくれないと、どんどん息苦しい世の中になって、どこかで爆発してしまうので、そこはよろしくお願いします~~(;。;)
あと、やや余談だが、わたしも昨年一回、とある人の山奥の病院への転院に付き添った。その方は身体症状が慢性化して転院になったのだが、山奥の病院だからといって山姥が看護をしているわけではなく、むしろ若い人が多かった。その方を見て素早くアセスメントし「この方吸引が必要ですね」と、てきぱきと必要なことを行ってくれた。
山奥だからひどい場所と決めつけてはいけないと思った次第だ。
さて本題。「亡くなられた方々は・・・」に書かれていることは、山奥の施設の善し悪しなのではなく、重度の障害者はなぜ山奥の施設に送られるのか? なぜ一生をそこで終えなくてはならないのか、という問題提起であり、そういう世の中を変えていこうという、強いメッセージである。
行政職員や障害福祉関係者の間でも、「入所施設は重度障害者にとっての居場所」という通念に疑いを入れる人はあまりいない。障害者支援の現場では、重度の障害者に対しては、家族介護がムリになると、地域生活の可能性に言及することなく、ショートステイからの施設入所を勧めるケースワークが横行している。
わたしもどうしてもそう思ってしまう。障害者とひとことでいってもいろいろおり、自己の意志を示せている人はともかく、知的にも身体的にも人の助けが多大に必要となる場合、いったいどのようにするのかと。
なにが、地域か施設かの間で違いをつくっているかというと、まわりの環境である。まわりがこの人には施設しかないと思えば施設で暮らすことになる。本人やまわりの全体が地域で暮らし続けようと思うのなら、地域で暮らすことが可能である。施設に入っている多くの人は、まわりが施設しかムリ、と思い込んでいるケースが多いように思う。
つまり、「重度の障害者は施設に入れろ」などという法律や決まりがあるわけじゃない。にも関わらず施設方向のケースワークが横行している。いったいその理由は何なのか? という疑問に、「環境にある。」と、筆者氏は答えてくれている、重要な箇所だ。
環境とはどういうことか? 推論するなら「人」ってことだと思う。
重度の障害者は施設に入れた方が幸せと頭から思い込んでる人、地域で暮らすなんて絶対無理と頭から思い込んでる人や、前例に従うばかりの人。などなど
現行では、身体障害者の24時間介護保障は多くの自治体で認められつつあるし、また知的障害者の24時間介護保障も少しずつ、認められるようになってきている。特に、知的障害や重複障害のある人たちの地域自立生活は「支援付きの自立生活supported independent living」とも呼ばれる。障害が重く、意思の表明がいくらか難しいとしても地域で生きる権利を奪われないためには、こうした概念が広まっていくことも大事である(注9)。
(注9)困難とみられていた重度の知的障害、自閉症の人たちがどのように地域自立生活(支援付きの自立生活)を営んでいるかについては、寺本他:2015を参照にしてほしい。
↑↑さらにここでは、重度の知的障害者が地域で生活していくため、参照文献を紹介してくれている。
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気になったのは、「障害者はいないほうがいい」というキーフレーズに、筆者氏が囚われすぎてる点だ。
それを言ったのは、あくまでも植松某という容疑者であり、他の人ではない。
他の人でそんなことを言っている人はいない。試しにブログ村とブログランキングとTwitterで検索したけど、ひとりもいなかった。むしろ、いなさすぎてビックリするくらいにいなかった。
(へんてこなツイッタラーが例外的にそれに近いことは言っていたが)
「言ってなくても、心の中で思ってるだろ」とかいうのはナシだ。心の中で何を思うかは、人の自由。人の心の中の自由にまで手を突っ込んだら、それはいわゆるファシズムの始まりだ。
(今、その心の中が、ある程度束縛や矯正や強制が可能である(テクノロジーやSNSやビッグデータやらが各自の内心を可視化、監視できるため)という事実が、ヤバイ感を醸し出しているんだが。)
あとこの文章にあったわけではないけど、措置入院にさせたのが悪かったのではないか。あるいは措置入院から退院させたのが悪かったのではないか。
詳しいことは専門家に任せるとしても、目の前で「障害者はいないほうがいい」とか言い出されたらショックで警察を呼ぶ気持ちも分からないでもない。暴力をふるわれたのと同じくらいの衝撃はある。殴る蹴るだけが暴力ではない。
もともと、障害があっても社会参加していこう、ウツなどを患ってもそこから復帰し労働していこう、というのが、今築こうとしている社会像だ。
働いている人だからってタフな人ばっかじゃない。
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ぼくも本当に、そのことこそ、今大事なのだと思う。一人一人がどういう思いで、どう生きてきたかに思いをめぐらすこと。
思うんだけど、介護や看護、援助する場合に陥りがちな間違いは、自分が間違った関わりをしていないかに意識がいきすぎて、相手の思いや状態に、実は関心がいってない事が多いのじゃないかと。
関わっている人、福祉の人、良い人、に見えて、実は無関心。
(注:やまゆり園のスタッフがそうだといってるわけじゃありません。知らない方々なのでそんな判断はつきません。自戒をこめて書いてます)
間違って「ない」ことが大事なんじゃない。
ほんとうの関心をもつことが、大事なんだと、思った次第。
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