シン・ゴジラ観た面白かった
石原さとみの英語が酷すぎると数個のソースでみたんだけど、やっぱりそうなんだ。
自分が英語できないから確証はもてなかったけど、コレ相当酷い発音なんじゃない? と、石原さとみの「超エリートセレブエージェンシー」っぷりを観ながら思ってたけど、当たってたらしい。
ただ、それは石原さとみさん、わざと!!下手くそに喋ったのだ。
ゴジラに出てくる役者の英語が下手であることと、ゴジラに出てくるアメリカ人の、浅草あたりでみつけた白人を連れてきてセリフ覚えさせただけ感は、ゴジラ世界の定番スタイルであり、それでこそ成り立っているのがゴジラなのだ。
それは観ている観客が英語を理解できないのと、観客にとってアメリカ人は赤鬼・青鬼みたいな存在で、同じテーブルについて喋った事なんかない!! という事実と、三位一体をなしている。
じゃあアメリカ人なんか出さなきゃいいじゃないかってなもんだし、実際、監督他スタッフは出したくはないはずだ。(憶測)
今回の監督は不明ながら、歴代ゴジラの監督はそうだと思う。んが、そうもいかないのだ。出さないとどうしても都合が悪くなる。「怪獣が日本で暴れてて自衛隊は出てくるのに、日米安保あるのにどうして米軍が出てこないの?」とか、「放射能が出まくってるのに国連どうしてるの?」とか、ゴチャゴチャと厭でも観客の頭に浮かんでしまうのだ。
浮かんでこない観客がいるとしたらお子様で、お子様は怪獣が大暴れしてれば大興奮し、街が破壊されれば目を見張り、さらにもう一匹怪獣が登場して格闘なんか始めたら、怖いやらうれしいやらでほとんどパニックに。
本来、特撮怪獣映画『ゴジラ』はそれだけで良かった。
ただそうはいかなかった。ゴジラは1954年(昭和29年)以来、何十本も作られており、その設定は毎回変わるが、放射能や核開発と密接に結びついている点は同じだ。放射能や核開発といったら、日本の観客にとってはまずもって原爆の記憶だ。
ゴジラが暴れまくってる理由、ゴジラが火を噴いている理由、ゴジラが怒り狂ってる理由。それらはみんな原爆への怒りと悲しみに関連付いている。そうでなかったら、どうしてあんなに怒りと悲しみの混ざった鋭い咆哮を、夜の闇に向かって上げるだろうか?
と、少なくともわたしは思って来たし、今回もそうだ。ゴジラの咆哮は絶妙のタイミングで起きないといけないのだが、そのたび目頭が熱くなってゴジラの「思い」のようなものと同化してしまう。今回も、決して変なタイミングで吠えたりしてなかった。が、前述したようなゴジラ観と、ひょっとして違うのかも? と思いだしたのは、やたらめったらとゴジラが痛めつけられるから。
そこまでやんなくていいじゃないと思った。といっても今度のゴジラ、べらぼうに強い設定になっているから、むちゃくちゃ叩きのめさないと東京壊滅しちゃうので必死になるのである。
一方、アメリカに全権委任しそうになったシーンはマジ焦ったね。自衛隊の作戦が失敗して、あやうく米軍様の登場となった場面だ。ゴジラより怖いのはアメリカって、リアルに思った。“早くみんな逃げないとゴジラに(東京に)原爆落とされちゃうよー!!”と。でもってそれで大勢を殺傷してもアメリカは、あとでもっともらしい理屈で(広島・長崎の原爆投下の正当化が「戦争の早期終結」であるように)世界を納得させるんだ。で、そのときこっちは死んでるから反論もできないってわけ。何回日本に原爆落とせば気が済むんだよって、もう怒りが先走って仕方なかった。
だもんだから、登場人物達の戦うべき相手はゴジラもそうなんだけど、アメリカに先越されちゃイカンってんで、必死に総力を挙げる。総力たって、ここが肝心な点なんだけど、日本人がだんだん覚醒してかっこよくなっていったドラマツルギーとかじゃなくて、アメリカや国連とは違う、別のオリジナルの手を打ったのは、オタク。
日本人、じゃなくて、オタク。
とここが重要POINT。役者陣でいうなら、塚本晋也、津田寛治、高橋一生、市川実日子、野間口徹・・・ 他は名前わからないから省くけど、ヤシオリ作戦の作成&実行チームの面々多数。
日本を救うのはオタクだよ、と、ここが監督の一番強調したい点なのである。
それを裏付ける証拠は随所にある。そも、博士の残した遺言が「私は好きにした。君たちも好きにしろ」であるし、「こんなで歴史に名前を残すのやんなっちゃうなー」とヘタレ感満載だった、イヤイヤ総理代行になったサトミさん。彼がどう活躍できたかつったら、側近の進言「そろそろ好きにしていいんじゃないですか」に従ったからこそ、である。
「君たちも好きに生きろよ」というのが本作の最大のメッセージであり、同時に、好きに生きてきたオタクの生き方への承認欲求と、やりたくもない勉強を続け大企業に就職したり公務員になる選択が正解とされた昭和~平成という時代だったけれど、それは、正しかったとはいえないだろう? と、言いたいのである。(憶測)
日本を支えているのはオタクじゃないか。そろそろ負けを認めろよと、言いたいのである。
ただその色がはっきり出過ぎると反感をもつ人が出てくるため、映画中一番かっこいい役者、竹野内 豊が演じたのはトップ官僚。で、最後は「この国はまだまだやれる。国民ひとりひとりの力は無限大にある。必ずここから復興してみせる」(大意)的なことを渋いバリトンボイスで言うのだ。
ここで一点留意したい事がある。2014年にハリウッドがゴジラを制作・公開したことだ。ハリウッドゴジラに負けるもんか!! アメリカに負けるもんか!! というのが大きな制作モチベになったと感じた。なぜなら、わたしもこんなでゴジラって何よ、映像イメージぜんぶ東北沖大震災の津波イメージじゃん、人の不幸をネタにしてんじゃないよってもー腹がたって腹がたって仕方なかったからである。ハリウッドが目を付けた、ということでオタクの自負心が満たされたというのじゃ情けないのである。しかしここまで一般的に鑑賞された理由はハリウッドが底上げしてくれたゴジラのステイタス、という点も見過ごせない。しかしながら、そんなので喜んでられるか、と。
そんなこんなの問題作であり、広島長崎の原爆への意識が薄い世代にとっては、福島第一原発事故を重ねるなど、鑑賞者によって受け取り方が重層的なのを、複数の感想ブログを読んで思った。
ちなみに、その中で知ったのだが、凍結された後のゴジラの尻尾、あそこに博士がいた、というのだ!! びっくり。
当方、動体視力が映画の動きについていけず、見過ごすものが多いため、尻尾は、細胞分裂しかけのゴジラに見えたのだけど、人間、だったらしい?? で、さらにそのブログが解釈するに、博士が好きにした、その好きとは、身を挺してゴジラを現出させたってことらしいのだ。(そのブロガーの推測であるようだが、「好きした」の中身は、そう考えるのが妥当だ)
さすが、人の迷惑を考えないオタクのやりそうなことだw で、「君たちも好きにしろ」の意味は、やっつけたければやっつけろ、と。
イイネそれ。受ける。
いつか、本格的な英語で役者が喋り、本物のハリウッド俳優も出演する、観客も英語を解し、なおかつアメリカ人はじめ各国外国人と日本人がそこそこ交流している、そんな時代がきたら、そんな時代のゴジラがどうなってるのかも、ゼッタイにゼッタイに、観てみたい