ゴースト・イン・ザ・シェルはホワイトウォッシュされたのか?
ゴースト・イン・ザ・シェルがめちゃめちゃ面白かった。機械と人間が融合する話だからもっと殺伐としたエンディングなのかと思いきや、
むしろこっ恥ずかしいくらいにあったかいやん♥ 目頭が熱くなったヮ!♥ 映像美もアクションもすごいしまた観たいヮ!!
と、興奮ぎみの余韻に浸りながら帰宅しつつ、スマホで検索したら、気になる記事をみつけた。
曰く「アメリカではGHOST IN THE SHELLはホワイトウォッシュされていると批判され、興行成績が奮わない」。
ホワイトウォッシュという言葉、わたしは初めて聞いた。
意味は、非白人の文化だったものを、白人が横取りすること。
この場合だと、本来は「素子」は日本人なのに、日本人が演じないで白人が演じた、ということを指す。
白人中心文化に拍車をかけた、ということであり、日本人の仕事を奪った、ということであり、人種差別である。
ううう‥‥
言われてみれば確かに、桃井かおりが出てきた時は、その違和感に絶句した。「まさかこの人がお母さん?」と思って。
でもスカーレット・ヨハンセン好きだし、桃井かおりと親子という関係なら嬉しい設定じゃないの、と思い直しながら観たのだ。
ここらへんについて、『ゴースト・イン・ザ・シェル』は単純な ‟ホワイトウォッシュ”映画ではない、とするユニークな記事もみつけた。
実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』少佐はなぜ白人なのか? ‟ホワイトウォッシュ”問題を超える配役の真の意味 | SPICE – エンタメ特化型情報メディア スパイス
つまり、スカーレット・ヨハンソンが演じる少佐は元々は日本人であり、事故によって脳を白人の義体に移植し、記憶も書き換えられていたのだ。
言うなれば、草薙素子という存在は、物語のなかでホワイトウォッシュされていたことになる。
なるほど。言われてみれば確かに。(←これが多いが)
素子を義体化した企業は、物語では「悪」であるから、素子を白人にしたのは悪の企業がやったことであり、それを退治していく流れなので、ホワイトウォッシュは批判されているとも言える。
……いやいや待てよ、その割にはクゼ(素子の恋人だった人)がスカヨハの顔を撫でて、その上ペリッと剥がしてまで「美しい」ってほれぼれしたのは何故なのか? 日本人の恋人を白人にされたら怒るはずだけど、そこを怒っていた印象は受けなかった。
なにぶん当方、英語音痴のためキャッチできなかった情報もあるから、自信はないのだが。
ミラが芸者ロボの記憶にダイブするシーンが好きだ。(こういうの→ 【特別映像】 cinemacafe.net )
あんな風に、人の意識の奥深くへダイブすれば、アジア人も白人もない、姿形もない。GHOST IN THE SHELLは本来ならば、SPICEの記事にあるような意味を深く内包しているべき映画だ。
とはいっても、そこまでの意識が制作者にあった確信はもてない。
今はそこらは置いておこう。好きなセリフをみつけた。たけし演じる荒巻大輔 (ごっつかっこいい上司)が言ったやつ。
「個性が尊重されるから安らぎがある」。
あと、バトーが言った「人を決めるのは記憶ではなく、何をするかだ」つまり、今、これから何をするかなので、人はまだ決まっていない。
たぶん、わずか数秒(の何分の一)後の未来に向けて決まっていく。決まっていき続ける。(時制が難しいw)