かぞくのくにを、日本映画専門チャンネルでみた
1959年から20数年にわたり約9万人以上の在日コリアンが北朝鮮へ移住した
「帰国者」と呼ばれる彼らが日本へ戻ることは困難を極めている
日本で両親と暮らすリエ(安藤サクラ)は、帰国事業で北朝鮮に移り、脳腫瘍の治療で25年ぶりに訪日した兄のソンホ(井浦新)との再会を喜ぶが、常に同行する監視役にも阻まれ、相互の溝を埋められずにいた。
Q.──自身がモデルの「かぞくのくに」の主人公、リエは、お兄さんたちに起きたことを決して許さないと言っている。お父さんの決断を今はどう理解しているか。
A.20代の頃は、父が兄たちにしたことに対してずっと怒りを感じていた。(帰還)事業の共同プロパガンダに加わった日本のメディアにも腹を立てていた。私は父にそれほど北朝鮮を愛しているなら、父がそこに住めばいい、私の元に兄を連れ戻してくれと言った。
しかし、父は、1971年に息子たちを送り出したとき、北朝鮮に住めばより良い教育や、より良い人生が与えられるチャンスがあると心から信じていた。父にとって、在日朝鮮人として日本にいることは、父いわく「ゴミとしているよりもひどいもの」だった。
日本映画専門チャンネルって、今やってる60周年記念ゴジラ特集もそうだし、原発再稼働問題のとき原発に関係した映画を流した時もそうだけど、何の映画をおりおりに放映すべきかよく練っている。今は、そう、『愛のむきだし』で「安藤サクラとかってすごくない?」という安藤気流を逃さず、『かぞくのくに』ぶつけてきた。あと、今のヘイトをはじめとする浅慮な排外勢力にさりげないNOをつきつける意味でも。
わたし自身、気流にのってミーハーな気分で観たのだけど、ガーンと重たい石にこころをふたがれた。観てる間、とくに中盤以降は「北朝鮮ほんっとやだ」「北朝鮮だいっきらい」「あーーやだー北朝鮮やだーー」と、ばしばしテーブルたたいたりフキンなげたりと、とてもじっと観ていられなかった。「三か月」の約束で日本にやってきたのに(その三か月も病気治療のためには短すぎるのだが)、理由もいわず突然「明日帰国しろ」と北朝鮮は命令してきた。もーーーー絶句も絶句。
しかしそんな北朝鮮になぜ兄が住んでいるのかといえば、父が行かせた。元は日本に住んでいて、楽しい友人達にも恵まれていたのに、わずか17歳の息子を「帰国事業」にのせて父は北朝鮮へ送り出した。無理やり拉致されたというならまだしも、行かなくてもよかったものを行かせた。自己責任厨ならあほだから「自業自得」と四文字熟語で切って捨てるところだ。
この映画の見所は父、母、兄、妹にさらに叔父と、だれもがすごい演技をしているのが第一だけど、他には、ソンホ(兄)の日本の風景をみつめるまなざし。ありふれた川沿いの道路、古い住宅街、その中の喫茶店、川と夕日。どれも見慣れた、ありふれた日本の風景なのに、ソンホの目を感じながら見ると違って見える。郷愁を拒絶するような固い風景。よそよそしくて、ビルという記号、家という記号、川という記号。こんな見え方もあるということに気づいたし、日本の見え方とはひとつじゃないんだと、感じ入った。
この映画で賞を受賞した安藤サクラの演技もグイグイ引っ張っていくけど、お母さんの宮崎美子も涙なしに見れない。ソンホを送り出す直前に監視員の男に服を新調してあげて、手紙も添える。そこには「祖国を信じるしかないのです」とか書いてあり、とても信じられない祖国だと思ったけど、苦手なハングルで必死で書いた手紙だ。その思いが通じて(通じるとは思えないから、ここらへんでも北朝鮮がイヤでイヤでたまらなかった)、監視員が、あるいは北朝鮮が、ソンホに何らかの便宜を図ってくれるとか。そしてまた治療のために日本に送ってくれるとか。
母の思いの一方、ソンホはもう北へ向かって歩みだしていた。空港へ向かう車の中、「白いブランコ」と少し口ずさんでぴたりとやめた。ここ、どう考えたらいいんだろ。祖国としての北朝鮮に帰る決意をした、ということなのか。わたしはそうは思いたくない。ソンホが気持ちの舵を北へ切ったのは、北に自分の家族がいるからだと思う。だから、たとえ脳腫瘍が悪化して言語機能を奪われ最悪死を迎えるとしても、家族のいる場所でならばその運命を受け入れると決めたのだと思う。
妹リエにとっては兄こそが大事な家族なので、去っていくのは耐え難いのだけど。