政策について思うこと

先頃、立憲民主党党首の枝野氏が政権構想(の、たたき台)を発表しました。上記記事はそれの党内での評判を伝えるものです。あまり評判は良くないです。わたしも、構想がコロナ対応一辺倒であること、夢がないこと、具体性がないことが気になっていました。

「政策」という大上段な話しではなく、自分の身近に何が起きているか考えましょう。たとえば小学生の子をもつお母さんは、オンラインゲーム「フォートナイト」をめぐるイザコザが子ども同士の間で耐えないことに、たえず不安と恐怖感を抱いています。学校に訴えても、調査中、調査中と言われるばかりだそうです。

先日『スマホを捨てたい子どもたち』を読みました。いかに人間にとって身体性が大事であるかが、説かれた本です。
しかし、今のように急激にテクノロジーが進化する時代には、誰も立ち止まることができません。誰も彼もが煽り運転でもされているかの如く、ハンドルを必死に握り、車線を越えないように集中するのが精一杯。

まして、コロナ禍の中では、ソーシャルディスタンスと称し、人との距離は開がり、身体姓から遠ざかるばかり。それが我が子の将来にどういう影響をもたらすのか、まったく先の見えない中、子育てをするのは大変なことだと思います。

先日『令和日本の敗戦』で知った、「国体」について書いてある本を読みました。『国体論 菊と星条旗』(まだ完読していないので、あとで途中経過をUPします)。これを読んで思ったのは、日本会議や安倍晋三などの国体派の人間が、日本の文化も天皇のことも、いかにバカにしているか。平成天皇の「お言葉」への軽視は本当に非道いものです。

あいにく、わたしはこの著者ほどには熱く天皇を敬愛していないとはいえ、それでも本当に欺瞞に満ちた卑劣漢どもめっ と思いました。そして考えました。

日本に政策上の対立軸があるとして、それを党名に反映させるなら

国民党 VS 国体党

ではなかろうかと。つまり、「国体」(が天皇であれアメリカであれ)(どっちにしろ幼稚なナルシシズムだと思ってますが)のための政党なのか、国民のための政党・政治なのか?

最近、「ネット世論に耳を傾けすぎる」政府、ということで批判があがっています。
新型コロナは、国体党(安倍政権)を、否が応でも国民のことを考えないでいられない(そのフリだけでも)状況に追い込みました。そのさまはある種痛快でもありました。が、彼らはかなり投げています。やりたくないか、やろうにも国民生活について考えるやり方がわからないのです。結果としてネット世論に耳を傾けすぎているのだと思います。

先月、立憲民主党の目玉議員であった山尾しおりさんが、「国民民主党」に移籍してしまいました。偶然かどうか「国民」が付いています。やはり、そこは国体党とは違うと、アピールする意識があるのかもしれません。(支持率は1%だそうですが……)

(「山尾志桜里 国民民主」で検索すると、その「下心」をあれこれ詮索する記事があらわれます。しかしマスメディアのみなさん、その次元で人の足を引っ張っていられるようなノンキな状況なんでしょうか。まじめに国民生活のことを考えた上で報道してみたらどうですか!!?)

↑これ読むと、枝野氏、よほど安倍政権を嫌悪していて(当然ですが)、一刻も早く打倒したいと気が急いている様子。一方山尾氏は、個々の議員が自由に発言し議論することを出発点に考えているようです。前者は政治上の戦法から考え、後者は自分自身を出発点とする。

野党議員はそれぞれ自分自身を出発点にすればいいのではないかと。

そうすると、意見がまとまらずバラバラになってしまう懸念はうまれますが、それはそれでいいではないか? 野党は、各自どう意見が違っていたとしても、国体党ではないのだから。

この中で、玉虫色ではない、具体的で生き生きした、ほんとうに国民の心に届く政治の動きが出てくることを願います。

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