私の男 / 桜庭一樹

 私の男は、ぬすんだ傘をゆっくりと広げながら、こちらに歩いてきた。日暮れよりすこしはやく夜が降りてきた、午後六時過ぎの銀座、並木通り。彼のふるびた革靴が、アスファルトを輝かせる水たまりを踏み荒らし、ためらいなく濡れながら近づいてくる。店先のウインドゥにくっついて雨宿りしていたわたしに、ぬすんだ傘を差し出した。その流れるような動きは、傘盗人なのに、落ちぶれ貴族のようにどこか優雅だった。これは、いっそうつくしい、と言い切ってもいい姿のようにわたしは思った。


私の男という書き出しで始まる本書、きっかり164ページまではとても楽しめて読めた。ことに、この書き出しのように「私」が「私の男」を語る筆致の、じっとりと湿って深い場所で何かが蠢いていながらの、快活さ鮮やかさキレの良さ。ぐいぐいと惹きこまれ酔わされ、それでいて、語られる内容の反社会性は、自分もれっきとして社会人の一員と堕しているせいだろうか、ハラハラドギマギと落ち着かなくなった。特に、美郎と「私」(花)の結婚式シーンにおける、花の「おとうさん」であり「淳悟」と名を呼ぶ相手である「私の男」との、人目憚らずいちゃつく姿や、結婚式というフォーマルな場を台無しにする淳悟の服装や振る舞いは道徳観をかき乱す、あまりに反社会的なものに写った。全編を通じ、反社会なテーマを扱っている本書であるけれど、花と淳悟が義理の父娘ではなく本当の父娘である展開を示す中盤よりも、やばく感じられた。
といっても、だからといってわたしが近親相姦をなんとも思わない人間なわけではない。近親相姦は、ゴリラやチンパンジーだって禁忌しているし、人類全体とてそうだろうし、それはこれからも変わらないはずである。(霊長類の行動パターンと、自分の内部感覚からの類推として)
が、だからといって、それをさせないために命までかけるのは馬鹿馬鹿しくはないだろうか。
大塩の親父さんってのが、それをやってしまうヒトだった。
この本はエンタメ小説として親切心にあふれているため、魅力的な内容が書かれていながらも、重大そうな伏線がいくつも張られているため、意識があらぬ方向に引っ張られてしまい、今読んでいる行から関心が離れがちになった。
著者のぶ厚いストーリーテーリングぶりは、舞台設定にまでおよび、オホーツク海を見渡す紋別という町を舞台として、何人かの人物を作り上げ、その一人が大塩さんというヒトで、こんな親切なだけのヒトがいるわけないと頭から決めてかかっていたわたしは、「実はロリコン」と、まあ定番的に予測していたわけであるけれど、実は純粋に親切なオジサンだった。他の人物も、主人公ふたりの濃厚さに比べてあまりに良いヒトばっかりなので、ちょっとそれはどうなのかなぁ? どうも、ふたりの「愛」に奉仕させられている感が鼻についてしまった。
それはともかく、大塩さんは、花のために、淳悟と別れよと説得する。それも、よりによって「オホーツクの流氷の上」でである。ちなみにこの流氷、アホな観光客がのっかりたがるものであるが、現地の人間はそんな危険なことは決してしないのが常識となっていると、当の小説内に書いてある。そのキケンを冒し、さらにまた花にポカポカ殴られながら「あんたはまだ子供だからわからんのだ。世の中にはな、してはならんことがある。越えてはならん線がある。神様が決めたんだヨォ」などと悲しくも命がけで説得するシーンは、「もういいから!!やりたいようにやらせておきなよ!」としか思えないものだった。しかも、実は実の父娘だったと、この時判明するのであるが、そうするとどうしても年数計算をしてしまうので、「え? 淳悟が中学生の時につくった子ども??」「すると相手の女性は何歳年上だったの」と、本題から外れたことを考えてしまったし、この時点ではまだ「震災」という重大な伏線は伏せられたままだから、そっちへも関心がいくしで、いくらなんでもテンコ盛りし過ぎではないだろうか。
ここらでもう読むのやめようと思って、しばらく放置していたのであるが、途中まででは「レビュウ」が書けないという打算的な理由もあって、辛抱して読み進めることにした。
オホーツクのシーンの次は、小町さんという女性の登場である。小町さんは紋別の町で「東京に行こうかどうしようか」ともんもんとする女性で、同時にバブル期以後の紋別という町を描く足場となる人物。が重心は花と淳悟にあるため、そこらは余禄のようなものかもしれない。以降、花と淳悟の、関係の「説明」に入る感があって、結局「そういうことならそうなっても仕方ないよね」的な地点に着地するのが、ある意味つまらなくあり、慟哭を誘うような面もあり、まとめすぎ、という感じでもある。
ジャンルとしてはミステリ寄りのエンタメ小説のようであるから、ここまでしないと「売れ」ないのだろうか、ここまでしないと話題にならないのか、と思うと、大変だなぁと思う。
しかし繰り返すが、全部で6章まであるうちの、第3章「2000年7月 淳悟と、あたらしい死体」まではとても良かった。