現代帝国論 / 山下範久
今かなり頭が痛い。読んだはいいけどさっぱり分らなかったからだ。けど、せっかく読んだものはレビュウを書きたいという欲求は捨てがたく、オノレの欲望と「わかんねー」という現実の間で引き裂かれ脳が悲鳴をあげている。ここを一歩間違うと個人的に無気力へ陥ってしまうので、何でもいいから書いてしまう、ということで乗り越えようと思う。
都合のいいことに本書が紹介する、ハートとネグりという人たちが書いた『帝国』という書物には、そうやって個々の<世界>が無数にせめぎあって成っている<帝国>について書いてあるそうで、その<帝国>では、何をどう解釈し理解し自分の世界を形作っても自由なのである。それなら気楽だね、と言いたいところであるが、同書についての池田信夫ブログ(というアルファブロガー)のレビュウを見たら、「そんなこと書いてあったっけ?」というようなレビュウだったため、ますます混乱した。いくら人の自由とはいえ、ある程度はちゃんと読解すべきではないだろうか。しかし、<帝国>では、これもこれでこの人の世界、ということになってしまう(?)わけで、そのお陰で自分も助かっている面もあるとはいえ、なんかもうよく分らない。
この本の古めかしいタイトルは、売り上げという点では損をしている。わたしなどにとって「帝国」とは、『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』のあの帝国だから、考えるまでもなく悪に決まっているのだ。「悪」に決まっているものについて考えるのはいかにも時間の無駄っぽい。スターウォーズの帝国では、醜く年老いた皇帝が力と恐怖で皆を支配していた。それに対し主人公ルークたち反乱軍は、友情や愛で結ばれつつ抵抗し戦っていく。
しかし確かに今思い起こせば、「その後どうなるの?」という疑問が残る映画ではあったのだ。
皇帝をやっつけ帝国を倒したとして、その後どうするのだろうか。
聡明で人格の高い誰かが統治することになるとしても、それでは仕組みとしては帝国と変わらない。
一番よく思えるのは、特定の個人であれ思想や宗教などのイデオロギーであれ、何にも支配されず統治されず、おのおのが自らの内面の正しさを生かしあう世界がやってくることのはずだ。
それはスターウォーズ的には、正しいフォースを皆がマスターすることで実現する、といったイメージだったのかもしれない。
なんかそれって、かなり<帝国>?
スター・ウォーズがどんな話だったかもう忘れているので、ここらまでとして、本書はおおまかに3つのパートから構成される。
1:ハートとネグりの共著『帝国』についての一般向け解説
2:こんにちの人間をむしばむ「ポランニー的不安」についての説明と処方箋
3:いわゆる国際問題、国際関係についてと、それらと1、2のからみ。ここでは、「ポランニー的不安」は現代、近代に特有のものではなく、人類史の常態としてあった、という結論も導かれる
1のハートとネグりの共著『帝国』であるが、わたしは自慢じゃないが寡聞にして知らなさ過ぎなためそんな本は存在すら知らなかったのであるが、とんでもなく傑作のようである。その傑作ぶりはamazonの紹介ページを見ても感じるし、この本を読んでもヒシヒシと感じる。まさに<帝国>(著者山下氏は一般名詞としての帝国と、ハート、ネグリの帝国を分けるために、後者は<帝国>と表記)の住民である自分を感じる。<帝国>は必ずしもイヤなものではない。おそらく「大日本帝国」なんかに比べるとかなりマシなのではないか。けれど、何か騙され掠め取られている感じがする。それに<帝国>の権力は見えにくい。見えにくいけどある。また、個人個人の個別性を重視するため、連帯をはばみ孤独を強める。孤独を強めることは<帝国>の権力にとって都合がいい。ここらへんの事柄を、本書は豊富に事例を挙げて説明しているので、わかりやすくエキサイティングな内容になっている。
2の「ポランニー的不安」であるが、そういう不安ならわたしは1988年ごろから常に感じつづけているため、実に親しみを感じる話しだった。「ポランニー的不安」が指し示す不安の内実は、生命科学のように自分で動かすには遠いものから、自分の心の中のような至近距離のものまで、範囲は広いのであるが、わたしのごく個人レベルの話でいうと、「3階のマンション廊下から飛び降りてしまうのじゃないか」という自分への不安が、一番最近のものだ。うちのマンションはエレベーターはなく、各階に長い外廊下があり、一番奥のドアが我が家なため、歩いている途中で「飛び降りちゃったらどうしよう」と不安、というか恐慌にかられている。そのため、普通に歩いていられず突然走り出したりとか、我ながら疲れる日々だ。
しかし、外廊下を歩かないわけにはいかないため、これらの強い不安にかられた時の自分なりの処方は
1:他人比(理由もなくそういうことをする人はいない。少なくともそんな人の話はきかない。ゆえに自分だけするというのは変だ。だからしない)
2:自分比(今まで自分はそんな変なことをしたことがない。もしもするなら、家の中でも何かしらやっているはず。家の中で死にそうになることをやっていない以上、外でもやらないはず)
3:仮にやっても3階なら死なない(最悪の事態想定タイプ)
この不安は、自分が正気であることを証明する外在的な何かがこの世に存在しないために起こる、と思われる。
個人的にごく古いものだと、子どもが赤ちゃんだったとき、その顔を「かわいいなあ」とのどかに眺めていた感覚が反転し、可愛さのあまり首をしめてしまうのじゃないかと不安になりだし、恐慌にかられるということがあった。あの時は、「かわいくない、かわいくない、かわいくないぞー」と自分に言い聞かせ、事無きを得た。
(実は今、不安で不安でたまらないことが他にあるのだけど話が長くなるので、またにする)
他、この本が例示するように、デザイナーベビーをはじめとした生命科学の暴走、というのも典型的にあるだろう。思えば、数年前に読んだカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』が、「世界の底が抜け」た先の話だったのかもしれない。あの時はネタバレになるからレビュウで書けなかったけれど、『わたしを離さないで』の登場人物たちは、臓器の全部を提供するために生まれ育てられた人たちだった(だからある時期までしか生きられない)。「市場」と「社会制度」が変われば、人の命に対してそんな不遜で自己中な態度をとって疑問に思わないような時代もやってくるかもしれない。
といっても、やはりあってはならないことだと、わたしは思う。あの小説では、そんな残酷な条件下にあってすら優しさを保ち、自分の考えをもち、なおかつそれぞれに個々の個別性を細かにもつ姿が描かれてあって、涙涙でありつつ、胸糞悪くグロいのだった。
といったことを思い出したのは、日頃ムニャムニャと感じていてうまく表現できないでいることを、この本は的確に把握し体系立ててくれているからだ。
しかし、いわゆる国際問題、国際関係に言及していく最後の方は、例え話が少なく抽象度が高すぎて理解するのは難しい。それに、うっかり「国際」といってはならなくて、地球上の全部の国が国際という概念をもっているか怪しいのだ。思えば、国って何個あるんだろう。「国」なんて考えたこともない部族の人に国を作らせるのは大変だったのじゃないか? このレベルからして分っていない自分である。
国はともかく「民主主義」が全部の国に浸透しているわけではないのは、今日の世界情勢のキーワードであろう(浸透すればいい、画一的になればいい、という話ではまったくないが)。数年前アメリカはイラクやアフガニスタンに民主主義を導入しようとしてうまくいかなった。しかし中途半端に民主主義を教えたきりアメリカが撤退すれば余計に混乱する、という話だった。この本によると、中東に民主主義が合わないのは、イスラム教のせいというよりも、家族制度の特質ゆえらしいが、ともかくとして、あまりに困難をきわめる話題なのは、何も例が少ないからだけでなく、もともとが難しい話なのである。
他にも理由があるとすれば、このことを実際に経験するのは、政治家と官僚と学者しかいない、ということだろうか。それ以外の人も、考えるのは自由であるが、体験するには、あとはNGOの活動くらいだろうか。
そんなでイギリスの学者はここらについていろいろ考えている。(詳しくは本書で)
本書もそういう意味では有意義ではあるが、メタ普遍主義と普遍主義がどうのこうのと言っている割合が多く、たとえば、国際問題といえば「国益」レベルで終ってしまう日本の政治家(や官僚?やその他も)の「国際政治感覚」であるが、何か違うアプローチはないのか。あるいは、チョコレートの原料であるカカオ豆のために過酷な労働を強いられる子どもたちを、国際的にはどうしたらいいのか。余談だが、この話をうちの子ども(15歳)にすると、「またその話?でも俺はチョコ好きだからくうもん」と、あまりにエゴイスティックな返事なので途方に暮れる。そりゃ、大人がどうにもできないことを子どもに考えさせるのもエゴではあろうけれど。そして同時に、わたしは親として、この子のエゴぶりを喜んでいる面がある。なぜなら、うちの子は生き延びようとしているから。というか自分「だけ」は生きていくつもりでいるから。一歩生まれ間違えれば、カカオの木に登って伐採する危険な労働を休みなく強制されていたことを思えば、その部分はクリアしたのだから、ある意味もう勝者の気分なのだ。そしてわたしはそのことを喜んでいる。
そんなであるから親的観点だけではどうにもならないと、分るだろう。そんなではなく、何かしら有効な論理空間は成り立たないのだろうか。
わたしの勘違いではなければ本書は先に述べたように、「ポランニー的不安は最近のものではなく、いつの時代もそうだった。だから近代にそんな特権性はない」というあたりに力が入っている。どうやら著者は、今の時代だけを特別視して不安を煽り立てる一派に対し不快感をもっているらしいのだ。そんな人たちがいるとわたしは気づかなかったが、テレビを見ないせいだろうか。確かに、この本も、不安を煽るタイプの内容にした方が儲かったろうから、それをしなかったのは良心的であるとは思うものの、しかし、どの時代の人間にとっても自分が生きている時代が「特別」なのは同じなんじゃないかなんて思ったり。実際本書でも、戦争概念がどう変わったかと、昔との比較で、「今はこう」と何個も述べているのだから、やはり今は今なりの特別性というのはあるわけで。
しかし全体に言えば、<帝国>概念を基点に、「ポランニー的不安」を過大評価することない形で共有する、といったあたりをスタートラインとするライン引き、のような本となっていそうだ。<帝国>は、この後も何かと使えそうなので、もともとの『帝国』を(読めたら)読みたいと思った。
ところで副題は「人類史の中のグローバリゼーション」なのだけど、「グローバリゼーション」の意味がわかっていない自分なのだった…………