夜想曲集その2
≪感想文連載第2回≫
【参照資料】
「老歌手」
出てくる楽器:ギター 場所:ベネチア 音楽と人:昔のアメリカの流行歌 それを歌っていた今は老歌手のトニー・ガードナー(どうやら架空の人物)
☆ ☆ ☆ ☆
「老歌手」
「私」は、共産圏(ハンガリー)出身で、今はイタリアの都市ベネチアでギター弾きを請け負って、カフェなどで演奏している。
ところがこのギターという楽器、ベネチアという伝統と格式のある土地では馬鹿にされている楽器で、ギターが弾けると言ってもいい顔をされないという。そのくせ重宝な楽器だから結局採用されて演奏に参加している、というのだから、雇うベネチアの人もしたたかだ。
こんな箇所からも、音楽が差別感情と親和性高いのが分かるのだけど、本人はそんなのは気にしていない。
共産圏で生きてきたことの内実は多くは語られず、その代わり自分の母が、アメリカの人気歌手にして甘い歌声のトニー・ガードナーの大ファンだったこと、共産圏にも関わらずどうしてかレコードを集め大事にしていたこと、などが語られる。
短編のため、具体的な西暦まで記述されていないので自分で調べると、<1989年、ハンガリーは一党独裁を放棄して平和裏に体制を転換、憲法を改正して国名をハンガリー共和国とし、ハンガリーの民主化が進められた。同年5月、ハンガリーは西側のオーストリアとの国境に設けられていた鉄条網「鉄のカーテン」を撤去し、国境を開放した>
とあるのでつまり、1989年以降のベネチアの街で演奏していた「私」のカフェに、今はすっかり老いたトニーガードナーがたまたま訪れ、「私」は、母の思い出そのものであるトニー・ガードナーと、音楽行為をともにする機会に恵まれる。
(ここに貼った写真は、たぶんこういう場所と時間での音楽だったろうと思うものをみつけてupした)
その過程で「私」は、トニー・ガードナーとその妻リンディ・ガードナーの、「愛し合っているのに離婚する」という奇妙な関係の渦に巻き込まれていく…
その中で起こる出来事や会話が次々と「私」の想定外であるさまが、見ものだ。と同様に、読んでいるこちらにとっても「あれ」「あれ」といちいち驚くことばかりだ。
たぶん、資本主義というものの本質に「私」もわたしも通じていないのだ。だから驚く。けれど、通じている人にとっては、当たり前の常識以前が語られているのかもしれない。
ふたりはゴンドラに乗りリンディのいる窓辺に近寄り、往年の名曲を奏で歌い、リンディに捧げる。
自分たちの演奏する音楽が「相手の心に届いた」ことをもって成功とみなし喜ぶ「私」に対して、トニー・ガードナーはそうではなく、もっと奇怪で複雑だ。奇怪すぎて、読んでいるとだんだんトニー・ガードナーに嫌悪感が募ってくる。
けれど、最終的に「私」はこう述懐する。
<ガードナーはちゃんとした男だったと思う。カムバックを果たそうと果たすまいと、私にはいつまでも偉大な歌手の一人だ。>
独裁政権下で生きた「私」と母。その暮らしがどれほど苦しいものだったかは、具体的に語られはしないけれど、その時代に生きた母を支えたのは唯一、アメリカの商業音楽であり、中でもトニー・ガードナーだった。
(独裁政権下でもクラシック音楽くらいは聴けたろうが、そういうのではダメだ)
老歌手トニー・ガードナーは、基本落ち目でお払い箱だけど、「私にはいつまでも偉大な歌手の一人」と言い切る深い忠誠に、ガードナー自身は喜ばないだろうと思いつつ、胸を打たれるのである。
thanks:photo It’s beautiful!!