お正月のお参りに出かけた

 3日に、家族みなで地元の*寺へ参拝&神頼みに出かけた。


 昨年は出かけたのが15日だったせいか、ろくに詣で客がいなかったが、今年は正月らしい日にちだったため、若いカップルをはじめ結構大勢散策していて心強く感じた。境内のような元々が静かな場所だと、人が少なすぎると心細いから、来年も早く来ようと思った。
 昨年ともうひとつ比較すると、昨年は御賽銭を投げたあとに手を合わせる段になって、アタマが白くなり願い事が思い浮かばなくて、目を閉じながらひとり焦ったのだった。そのニガイ失敗があったから、今年は効率的に願ってしまおうと、あらかじめいろいろと考えた。あらかじめ願い事を用意するとなると、実にあれやこれやと浮かんでくるもので、最初は身体健康に関わる基本的な事柄だったのが、だんだんと海外旅行に行きたいだの場所はバンコクだプーケットだの、その前にかっこいいブーツを買いたいだのと思い浮かび、これじゃあ欲深すぎて逆にバチが当たりかねないと考え出すと、いわゆる畏怖の念がわいてきて、それじゃあ参拝するのに嫌気がさすわけで、ほどほどにすることにした。
 *寺には樹木がたくさんあり、名前を知らないのでその一本一本について詳しく語れないのが本当に残念だけれど、ただ見事な剪定がほどこされているのは確かで、サザンカ一本とっても、うちの庭にあるやつとまるで違う。そうか、こういう風に低く仕立てるという手もあるのか、と関心した(写真1)。また、竹にしても、そこらで密林状態になっている竹は、茂りすぎて重さでダラーーンと垂れているのに対し、これまた剪定されているのかどうか、コザッパリした品のよさで感心してしまう(写真2)。我が町にも腕のいい植木職人氏が大勢いるってことだろう。
 こんな風に、最近自分の住む町に関心がわいてきたのは良いことだと思う。多太志(23歳)が生まれてこの町に越して来て以来、周りの風景を眺めている余裕もろくなかったけれど、最近になってようやく…。同時に、こうしてこの町に順応して、この町に馴染んで、この町で一生を終えるのだろう… という未来予測も、素直に受け入れる境地になってきた。だからこそ、地元の*寺へも参拝するようになり、今年で3回目だ。まぁなんというか、長い道のりだった気もする。
 天気は晴れ。気温はおそらく13度くらいで、さほどは寒くない。
 なのに、多太志はコートやジャケットを買うお金もないのか、寒そうに肩をすくめている。コートやジャケットも買ってあげたいけれど、そこまでするのは過保護な気がする。よその家はどうしているのだろう。母親が買ってやっても結局着ない事が多いので、ばからしいからやはり買うのはやめよう。
 そんな多太志よりも冴えない顔をしているのはルキカ(20歳)で、ノロノロとわたしたちに付いて来たものの、自分の仕事にナンの意味があるのかと、つまり自分の人生全般に疑問を感じ始め、先日も長々と愚痴っていた。このような話を聞かされるのは親にとってつらいものだ。否一番つらく苦しいものである。自分にもそういう時期があったと語る方法もあるが、今の時代の条件に合うのか。彼女の苦しさは、誰でも若い頃通る一里塚なのか、それとも労働条件などの不当さがもたらしているのか、わたしには判然としない。
 そんな苦しさもあって、*寺を訪れたというのもあるのだ。神様に祈願することは、自分の願いを明確にイメージする効果を期待するからだ。ルキカにもそうしてほしかった。ただそこまでは彼女に言わなかった。だいたいがわたしのことなど五月蠅がっているのだし。
 境内はとても広くて静かで穏やかで、とても落ち着く。境内には売店も自動販売機もない。物欲などわいてきようがない。自動販売機の前でつつましい選択の自由を行使する迷いがないのは、仏教の教えにふさわしい気がする。ルキカはきっと、まだまだ当分迷い悩む日々が続くだろう。見守るしかないわたしたちだけど、ある程度はしかたがない事だ。ただ、どこまでが「搾取」の結果なのか判然とできないでいる。
 わたしは、ハイライトの御賽銭投げと願い事を、用意していたのに今年もうまく出来なかった。賽銭の額が、去年より奮発したとはいえ、あれこれ願うには高いとは言えない金額だったからだ。しかし、その金額がいくらならば何を願えるのか、そんな基準があるわけではないはずだ。わたしは手を合わせながら、あらかじめ願うと決めていたことを願い終えても、欲深にまだいくつかの事を願った。またバチが当たりそうな気持ちになった。けれど、ここでひるんではいけないと自分を励ました。
 帰りに「お守り」を買った。お守りは毎年買っている小さいのを五つはやめて、一枚で家族全員をフォローできそうな木のお札タイプを選んだ。こっちの方が経済的だからだ。まったく、どこまで色々計算すればすむのかっていうくらい、いろいろと計算が尽きない。
 寺の側の蕎麦屋で、わたしと家人は山菜蕎麦を、ルキカはたぬきうどんを、多太志は源平蕎麦なる蕎麦を、末次郎はたぬき蕎麦を食べた。あったかくてフーフー言いながら、お店の人がなぜか見ていたこともあって「おいしいね-」とアピールしながら食べた。ただし、ルキカはまったく食欲がないらしく、「占いしてもらおうかなー」とか「お母さん、占ってもらったことある?」とか「××の母ってあたるのかなー」とか、そんな事ばかり言っている。わたしは占ってもらったことはないし(金を払ってのものは)、第一占いなど信じないし、今まで書いてきたことを否定するようでナンだが、神様への祈願など信じているわけではないので、ルキカの言っていることはあまりにもナンセンスに思った。
 だからといって、わたしに道しるべを示せるわけではない。悲しい。
 占いくらいで気がすむなら、大いにやっていいのだ。実際、ニコニコ生放送とか見ると、占いは大盛況のコンテンツだ。
 家に戻ると自然に家族団らんはお開きになった。ルキカの事が気がかり。わたしがどう生きてきたのか、という事を教えれば参考になるだろうか? ……あまりそうは思えない。ルキカとわたしは人間のタイプがかなり異なっているし。
 夜、自分の机の前に座って家計簿を付けた。その家計簿は、犬の写真がたくさん載っているかわいいやつだ。支出の分類が「食費」「雑費」「その他」の3種類しかないので簡便でもある。わたしは今日の支出の中から、食費に該当するものは金額を書き、賽銭の額とお守りの額はわざと明確にならないように、つまり、わたしの願いが金銭と等価にならないよう注意して、ホニャホニャと書いた。迷信を信じない、占いを信じないとはいっても、賽銭額を記入するのは神仏に対して失礼ではなかろうか。それに、なんだかんだ言っても、今日手を合わせた相手が、わたしの願いを叶えてくれるんじゃないかと、期待している。
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