「『認知症の人を地域で』 厚労省が本腰」ってそれはいいけど、そういう極めて個別的な事、今の中央集権体制でどこまでやれるンだろう?
今日のソース(特濃)一覧
- 「認知症の人を地域で」 厚労省が本腰 精神科病院の抵抗 WEDGE Infinity(ウェッジ)(2012年07月24日)
- 今後の認知症施策の方向について(2012年6月18日)厚労省pdf
- 厚労省の認知症報告書「一方的な官僚主導」 – 医療介護CBニュース – キャリアブレイン(2012年08月08日)
- 新たな認知症施策をまとめた報告書を公表- 在宅支援チーム創設を提言・厚労省 – 医療介護CBニュース – キャリアブレイン(2012年06月19日)
- 認知症医療「どこが不適切か理解できない」- 日精協が厚労省報告書に反論 – 医療介護CBニュース – キャリアブレイン(2012年7月26日)
- BPSDの激しい認知症の方の移送と入院 – リカバリー志向でいこう !
- イギリスの地方分権-その誤解と現状 – Westminster日記
- 各国の地方自治シリーズ – CLAIR 財団法人自治体国際化協会
- 英国の地方自治
- 隔離医療に問題 八尋弁護士
- NPO法人 認知症ケア研究所
■ソース1「認知症の人を地域で」 厚労省が本腰 精神科病院の抵抗 WEDGE Infinity(ウェッジ)は、とあるツイッターを見ていて知ったもの。
これ読んで思ったのは、せいしん科って、ほんとーーに悪口ばっかり言われるなぁってことで。
ウェッジって聞いたことない出版社だけど、知りもしないのによくこれだけボロクソに言うと思う。
もう腹たって腹たってしょうがなかった。
かくいう当方も10年せいしん科で働いている。
っていっても准看だからね…
さして怒る資格もないわけだけど…
だからスルーしようかとも思ったけど…
真面目にやってる看護師とか医師とか、頭に来ないのかね?
その点も気になって、他の人が何を言っているか調べてたら、きりもなくソースが増えてしまって、どんどん濃厚な味わいへと…
そりゃせいしんに暗い歴史、及び現在の問題点があるのは確かで、わたしも何冊か関連書籍(ルポ本や精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本など)を読んだことがある。
それにまた、地方によっても違いがあって、わたしがせいしんで働き出した10年前に聞いた話だから今は違うかもしれないけど、「自分の田舎のせいしん科では患者を外に出す、ということはない。まず家族が嫌がって人に見せたがらない。だからこっちのようにレクで外出ということはない」
と言っていた。
その人は東北の人で、「できれば田舎のせいしん科では働きたくない」と言いながらも、親の面倒を見なくてはならず、しばらくして職場から去って行った。
帰って田舎のせいしん科で働くことにしたのかどうかは不明だけど、もしもそうなら、少しでも開かれたせいしん科にしたいというココロザシでいたろうとは、思う。
ソース1の最後に「多すぎる日本の精神科病床数」として、「日本の精神科病院の病床数は世界的にみて圧倒的に多い」旨が書いてあり、「日本には明治以来、私宅監置という制度があった」云々と書いてある。
この事は事実。ベッド数が多すぎる件は昔から言われていて、わたしも職場のせいしん科の講義で数回聞いた。ただ、なぜこんなに多いのか、という点はよく分からなかった。
ベッド数を減らすのは賛成だし、実際に訪問看護やデイケア、ナイトケアを利用することで実現している。
以前なら入院していた人が、実は身体は健康、自分のことは自分でできるのだから当然だ。(多少そのやり方が風変わりに見えたり、おぼつかなく見えたとしても)
地方はどうかよく分からないが、都市部はどんどんそっちへ移行しているし、これからは更にそうなるだろう。
もしも進んでいないとすれば、その地域に必要なことは…
地域の人は、人の多様なあり方を認め、規格化されたモノカルチャーな性格だけしか認めないような考えをあらためる。そのために地域は、さまざまな催しや活動を行い、さまざまな条件下で生きる人への理解を促す。それにより、誰もが認知症などで自分も同じような事態になる可能性を受け入れるようになり、一方的な理解や寛容ではなく、お互い、という観点から複合的な視野を得、それがまた思考に柔軟さをもたらしひいては自分の人生を豊かにする。地域全体として言えば、皆が広い心を持って余裕をもって生きられ、人間同士のつながり及び土台となる環境をともに作るようになる。
つまり、皆の問題だ。
せいしん科だけを悪者にしたところで、どうなるっていうんだろう?
せいしん科病院が患者さんをかき集めて無理矢理入院させてるってんなら兎も角、そんな事するわけがない。退院にしてもほとんどの人がいつでも退院できる「任意入院」のはずだ。
そりゃ元のベッド数が多いから人が入ってしまう、という側面もあり、ベッドがないなら入院しようもないから、せいしん科がぜんぜん悪くない、とはいわない。また、非常によくネットで見かける批判として薬の不適切な処方によるせいしん症状の悪化、などによる入院もあるかもしれない。が、あいにくとわたしは医師ではないのでその件についてよく分からないし、コメントする能力はない。ただ自分の周囲ではそういう印象は受けないので不思議には思っているけれども、そうは言ってもどの医師も最初から素晴らしい処方をするわけではないし、まして新薬がどんどん出る昨今の状況は、せいしん科病棟の風景を一変させた。(ここらへんは良い面もあるし、混乱の面もあると思う)
おもに社会(や家族)の無理解や受け皿不足が入院を続けさせているわけで、筋違いの攻撃もはなはだしくないだろうか?
ソース1をさらに見ていこう。あまりにも理解のない事が書いてあるからだ。
「本人の同意がなくても、保護者の同意で入院させることができる医療保護入院制度を創設したことだ。」と、あたかも悪いことであるかのような文脈で書いてある。
ちょっと待ってほしい。「本人の同意」と、伝家の宝刀のごとく「本人」「本人」言うが、その本人にまっとうな判断能力がない場合はどうするのだろう?
本人が自分で判断できるのなら、その通りすればよい(←ウェッジ及びウェッジが参照しているソース=10番は、これを至上のものとしている)。しかし実際は、本人は自分で判断できているつもりで、まったく出来ていないのだ。もしも本人の入院したくないという判断を尊重してその通りにしたら、その足で速効車に飛び込むかビルから飛び降りるか、あるいは他害行為に及ぶだろうと予測される場合、いったいどうしろと言うのだろうか?
そのまま死んじまえ、とか、やっちまえ、とでも言うのだろうか?
「本人」をあまりに重視するあまり、この件が軽視されすぎていないだろうか?
このように、本人でありながら本人であることを失う事態は、せいしん科ではまったく珍しくない。
というか、本人でありながら本人であることを失ってしまうのは、せいしん科ばかりではなく、ごくふつうに起きる。
少し前も「電車に乗っていて、突然自分が誰なのか、なぜここにいるのか分からなくなった」と、極度の不安及び混乱で入院してきた若い男性がいる。入院してきたといっても、そんなのは病気でもなんでもない。本来は誰にでもあることだ(と思う)。ことに10代後半から20代前半には通過して当然の道だ。ところが、人間の精神の可動域(というか可能性というか、うまい言葉がみつからないが)の広さを認めれない規格化された社会だと、そういう不安や混乱は異常事態になってしまう。
不安や混乱とは少し違うが、そんな社会だから、ちょっと暗い人間や無口な態度や内向的な人は、極端に生きづらい世の中になっている。というか生きづらいを通り越して「ウツ病」扱いになって(本人も明るく振る舞えないのだからウツという気になって)病院にかかる。
(ちなみにその男性は一泊もしないくらいで退院していった)
わたしがいる所はあくまで病棟であり、外来ではないので相当憶測混じりだし、個別的に考えないといけないわけだけど。
(外来に来る人の本来の足場は、最大のストレス源である職場、家庭、学校であり、そこからとりあえず解放されている入院者とは違ってくる)
話しが際限なくなるので「認知症」に向けたい。
認知症もまた似ている。
ソース1の冒頭にこうある。
「厚生労働省が画期的な報告書を出した。『認知症になっても本人の意思が尊重され、できる限り住み慣れた地域のよい環境で暮らし続けることができる社会』の実現を目指す、とある」。
ウェッジは手放しで厚労省を礼賛しているが、認知症で、話しの多くは通じなくなっているのに、本人の意思など、どう尊重するというのだろう?
「本人」がちゃんとしているのなら、誰も認知症なんて呼ばない。
ウェッジが「画期的」と絶賛する厚労省の方針(ソース2)を読めば分かるが、厚労省が尊重したいのは本人の意思ではなく、あくまでも厚労省の意思だ。厚労省は、本人の意思を「住み慣れた地域に住み続けること、住み慣れた家で暮らすこと」と決めてかかっている。もしも本人が、家から離れ施設に住みたいとか、せいしん科でもいいから病院に入院したいと意思したらどうするのだろう?
細かいことを言うようだが、「本人」「本人」と言ってさえいれば文句ないだろという態度が気持ち悪い。
■ソース2今後の認知症施策の方向について
さっきから話しに出ている、今年6月18日付けで厚労省が出したやつ。
これに対して人がどう言っているかをみつけるのは難しかった。仕方ないので2ちゃんねるの板で調べたところ、認知症関連のスレッドは乱立していたが、該当するものは少なかった。というか、板は殺気立っていて(2ちゃんの場合たいがいそうだが)、認知症を看る家族の苦労が忍ばれた、というか壮絶と言っていいほどだった。
2ちゃん以外では、ソース6番をみつけた。長野県でせいしん科系訪問看護など地域医療に取り組んでいる方と見受けられた。言うなれば、厚労省の言っていることを先がけてやっている方だ。この方は軽く言及し「よくできている」と一言漏らしていた。
ソース11番は、職場で認知症勉強会をした時の先生が主宰するNPO法人。もう3、4年たつがわたしはその時の小冊子を今も持っている。認知症の症状や特徴や分類など分かりやすく書いてあり、なおかつとても温かい内容だ。「何もできない、気難しいおばあさんとしてではなく、『私』を見てよ、看護婦さん」という言葉で締めくくっている。
これは何を意味するかというと、認知症という属性を離れ、その人自身を見る、その人自身と関わる必要性を説いている。認知症というと(認知症に限らず他の「病名」全部そうだが)、どうしてもその病名で判断してしまう。けれど、実際はその病名以前に、その人固有の性格とか人生とか価値観というものがあり、その人自身がいる。そこを第一に見る大事さ、ということ。
その先生も、厚労省の方針についてブログでサラっと触れてはいても、詳しい感想などはない。
まあ、言われなくてもとっくの昔から、目も耳も心も総動員でご本人の意思をくみとりながらやっているのだから、厚労省の指針は興味のわく内容ではないのだろうと、わたしは推測した。
■「今後の認知症施策の方向についてby厚労省」を読んでの感想
- 認知症の人の人数をどれくらいと認識しているのか。それは前期高齢者、後期高齢者のそれぞれ何割なのか
- それの、少なくとも向こう20年間くらいの推移推定
- 地域差というのものを、どう捉えているのか。都市部と地方では、考え方に相当に違いがあるような気がするが…
- 認知症の原因をどう捉えているのか。認知症の原因の特定には力を注がないのか
- 『「認知症になっても本人の意思が尊重され、できる限り住み慣れた地域のよい環境で暮らし続けることができる社会」の実現を目指す』と、数回にわたって強調されているが、本人が「住み慣れた地域を離れても施設で暮らしたい」あるいは「せいしん科でもいいから病院に入院したい」と意思した場合はどうするのか?
- 家族がおらず、なおかつ「かかりつけ医」がない場合どうするのか? 認知症の早期発見はできそうもないが
- 認知症初期集中支援チームによる初回アセスメント訪問というのは、どうやるのか? やはり家にあがってやるのか? その対象となるのは、一律65歳以上なのか? 本人がイヤだと言ったらどうするのか?
- その後も定期的に認知症になっていないか確認に来るのか? 「今日は何月何日ですか?」としょっちゅう聞きに来るのか? 「ふざけんな」と怒りだしたらどうするのか?
- そもそも、人員確保をどうするのか? 給料はちゃんと出せるのか? 休暇もちゃんと出せるのか? 働く介護者のモチベーションはどう保つのか?
- 厚労省としては認知症の人にどこまでも家に留まってもらって、半分は家族がみる前提でいるようだが、多くの地方では都市部に家族が出て行っている。家族を戻す意味でも、地方に権限委譲し活性化する必要があるように思うが、どうなのか?
- 市町村単位の取り組みの必要性を言っているが、市町村単位にどれくらい裁量権があるのか?
- これら施策によって官僚に与えられる利益、権限、天下り先、箱物は、どれくらいあるのか?
- 認知症の人に対する介護の質を、トップダウン方式で保てると思うか? 現場で起きる多種多様な出来事はケアパスにないことばかりだと思うが?
- 市町村単位なり、もっと小さいユニットなりで、話し合い、独自に解決策を見いだす方が、意義があり、生きている実感のある仕事方法だと思うがどうか? そういう意味では働くサイド(介護者等)もまた認知症/高齢者候補であると考えれば、より充実感のある方法で仕事をした方が「予防」になると思うがどうか?
■ウェッジの記事、「夫を入院させて後悔している女性」の話しは真実だと思うけど、悪いせいしん科病院の一方で、女性の助けになった「いざと言う時は、救急隊にその病院の名前を言えば、必ず受け入れてくれる 訪問診療を手がける病院」もせいしん科病院なんじゃないのかなあ? 認知症の訪問診療というのだから。そういうのもハッキリ情報提供してほしい。
■ソースの345は参考までに挙げてみた。
■789は海外の自治。それも特に厚労省が手本としてあげるイギリスだ。イギリスでも大きなせいしん科病院は閉じているのがaizy.net/20e2012.htmを読むとわかる。
■軽度のうちは「本人」の判断力はあると思いますが
■「地域でみる」とは、地域「が」見る、というのとは違いそうだ。