シャングリラ ~ 変身 / チャットモンチー
ムックのシャングリラを探してて見つけたチャットモンチーのシャングリラ(2006年リリース)。
わたしの場合、癇性の甲高い女声が苦手なので聞く機会もなかろうと思っていたチャットモンチーだけど、何がどうシャングリラなのか知りたく、DLして聴いてみた。
イントロは予想外にズシンと重い叩く音だ。歌詞の中で特に印象的なのは、携帯電話を間違って川に落とし、それが笹舟のように流れていくくだりだ。そこらでは「携帯電話って川に落ちたら沈むんじゃない?」とつっかかりぎみに聴いていた。その後いろいろあって、際立つメッセージが放たれる。「希望の光なんかなくたっていいじゃないか」と、言うのである。その言葉をゴシック太字体で強調するがごとくドコドコドンという低いドラムの音が追随し五臓六腑を揺さぶる。
こりゃヤバイ、と思ったね。
川に流れてく携帯電話が象徴するのは軽い人間関係、そつのない、間違いの無い人間関係。思いやりの皮をかぶった警戒感いっぱいの臆病なシステマチックな風を装った人間関係。携帯電話がライフスタイルを変えた。携帯電話の高い料金を毎月払って持ち続けなければもはや人間ですらない。それを強いる時代、社会。だからって携帯電話自体を批判したい曲ではないだろう。個人的な、この胸中で起きる「革命」の歌だ。それがなければ自分は笹舟のごとく遠くへ流されて行く一個のアイテムにすぎない。ダメな人をダメな人と切り捨てて次の人を「恋人」という名のアイテムに変えるひとつの世間を構成するパーツなだけだ。
「シャングリラ」から7年の歳月が過ぎた今、彼女たちはどんな音楽を作っているのだろうか? その答えは幸いにも『変身』にて2012年10月には出ていた。よかったーやったーと思った。ことに311以後無作だったら凹んだだろう。さっそくDLして聴いてみよう… というこのDLからしてクセモノだ。昔CD大昔LPレコード。今は、何万曲もあるうちの砂粒のような一曲になっている。人々はダウンロードし視聴し脳内ニューロンをつなぎ電気信号を発生せしめ、けど刺激に慣れたら電気信号は起きなくなるからそれでおしまい…
まるで神経の上をベルトコンベアーが走っているようだ。
『変身』はそのような時代の影響を強く感じさせる。たとえば「テルマエ・ロマン」。
お風呂に入って体や髪の毛を洗おうというだけのことなのに、どうしてこんなにも切なく力強い決意を必要とするのだろうか。
お風呂に入って身体をきれいにするという行為が自分のため、自分の心地よさのためではなくなっている現実があるからだ。なにせ、身ぎれいにしていないと何を言われる分からない。不潔で臭い女なんて思われたらアウトもアウト、生死に関わりかねない(という強迫観念ふくむ)。しかも時間に追い立てられまくっての入浴だ。
そうではなくて、この世に唯一のわたしのためにわたしをきれいにする。わたしを押し流そうとするシャワーの水圧のようなどこからかの圧力に屈しないで、グググと力を込めて時間を止める、流れを止める。そして、ゆっくりとお風呂にはいる。ぜったいに、そうする。ぜったいにゆっくりと。
社会派のメッセージソングはそれだけでもうリスナーにアレルギー反応を起こさせるため、そうとは見えないようにしないといけないのだけど、逆照射手法によって社会の姿がどの曲にも映しこまれているのが感じられる。とはいっても、それだけでは人を惹きつけることはできない。音楽は社会問題提議パンフレットではないのだから。
それでも、音楽で元気づけられてそれでおしまいになりがちなところを、自分の力を信じて社会(地域社会とか、いろいろある)のために少しでも何かできればいいと思う。何も社会のためばかりに言うのではない。その方がチャットモンチーが末永く歌い続け活動を続ける助けになるからだ。ぶっちゃけた話し、チャットモンチーくらいになれば、求婚者はいくらでも表れる。よい学校を出てよい収入を得るよい地位についた男性だ。どんなに無敵に見えても、疲れてリタイアしてしまう可能性はいくらでもある。実際ウタタネはそんな弱音の部分を感じさせる。
外国の場合は、「社会活動的なことはちゃんとやるから音楽は音楽で楽しませてくれ」、というのがある気がするが、日本の場合だと、音楽に社会派めいたものが絡むのに抵抗しつつ、かといって他で社会活動っぽいことをするわけでもない、という現象が現在進行形だ。
…うーーん…
という感じの話が多くなって、れびゅうでなくなってきたな。
ちなみに「人生、ふたり、自由ヶ丘」の自由ヶ丘はあのハイソな街の自由が丘とはべつもん。
この曲では他に希望ヶ丘というのも出てくる。希望ヶ丘いいな~、絶望ヶ丘はヤダ!!