ジョクソウ
わたしの働く病院に長く長くいた方で、わたしが働き始めたのは5年前なので、わたしにとってはそれ以来のおつきあいだった。
どんな方だったのか、それを説明するのは難しい。
鎌倉の方のとても良い家庭の方で、上の息子さんは東京大学、下の息子さんも早稲田かどこかのいい大学に入れたのだという。
息子さんばかりではなく、ご自身も聡明で賢く、なおかつ自分に対して厳しい方だった。
たとえば、食事をすすめると、必ずいらないと言うのだった。
それでも無理強いのようにすすめると、渋々口を開いて、結局はパクパク全部食べてしまう。
「ほら、美味しかったでしょう?」と、ちょっとからかいぎみに言うと、黙っている。
「ほらーー 素直に美味しかったって言わなくちゃー」とさらに言うと、
「おいしかった…」と、かすかに照れ笑いを浮かべる。
ここまで「素直」になられたのは、ここ最近のことで、まだジョクソウもできず、ご自分で歩いていた比較的健康な頃は、もっと自分に対して険しく厳しく、自分自身と、自分の過去と未来と、自分を取り囲むすべてに対して否定的、悲観的な方だった。
つまり、そのような形で発現されたこころのやまいだった。
接するこちらにしてみれば、手助けのし難さ、その不可能性、ズバリ絶望感、を感じさせる手強い相手であったのだ。
サトウさんは、そのような緊張をもって長く過ごしていたわけだけど、二年ほど前、肺炎をきっかけにして寝たきりになってしまった。
手足の筋肉の硬直も顕著なので、手も使えなくなり、食事もすべて介助となった。
けれど、それで卑屈になるということはまったくなかった。
最近では、ベッドを小舟のように感じるらしく、舟から落ちる幻に悩まされ、どうにかしてと、よく訴えていた。
といっても、すでにかなりの高齢なので、若い人のせいしんのやまいのような先鋭的な苦しみではない。
訴えるだけ訴えたら、それである程度は落ち着く。
それでも、動けないベッドの上で、独特の緊張をもって、真剣に悩み、真剣に訴え、かと思うと、自分で訴えたくせしてそれが聞き入れられるはずはない、と悲観していた。
どうしてこうややこしい苦しみの迷路に迷い込んでしまったのか? とわれわれはよく話し合ったものだ。
けれど、たいがい苦しみは出口がみつからないものだし、そう考えれば身につまされるところがあって、人ごとではないのだ。
そんなで、サトウさんが時折見せるはにかんだ顔や微笑みは、お愛想でも作り物でもなく、本当にその顔だった。
いつも過剰に真剣なサトウさんは、うそで微笑んだりはできない。
だから、サトウさんが笑うと、みなが喜んだし、ちょっとした安らぎを感じたのだ、と思う。
サトウさんはすでにせいしん科の治療の対象ではなく、せいしん科薬もまったく服用していない。
ちょっと奇妙な訴えをする老人なら珍しくないし、それは治療の対象にはならない。
病院と名の付くところは、病気を治していないとお金にならない(らしい)のだ。
転院先は、意外と早く決まった。
なんせお金持ちなので、入所時に払うン百万円など、夫はあっさり払ったそうだ。
そして先週、長期療養型介護施設のお迎えの車とともに、夫が海外旅行から帰りたての、テラテラと日焼けした顔で表われ(何年も見舞いになど来たことはなかった)、サトウさんは、去っていった。
ジョクソウの方は、先週見たところ、あと少しで完治というところまで来ていた。
ちなみに、迎えの車が来る直前、最後のジョクソウ処置を行ったのはわたしだ。
小雨そぼ降る中、最新式の介護車に自動的にガーと運ばれるのも、見守った。
このあと、知らない人たちに取り囲まれる生活になるから、またまたストレスだろうけど、サトウさんは何が起きたか即座に理解していた。
緊張顔のサトウさんだったけれど、わたしの挨拶にちょっとだけ笑顔になった。