花の看板作った。そして思い出した’グルジェフ’の教え・・・・

ネモフィラの看板

10月の忙しさは尋常じゃない。土に腐葉土や苦土石灰を混ぜたり、球根を植えたり、来夏―秋にかけて咲かせる宿根草を植えたり。
なにせ、寒くなりすぎてから着手では、植物が育たない。
しかも去年の10月は当方、WordPressと格闘していたから、植物どころではなかった。そのせいで、今年せっかく秋が訪れたのに花一輪咲いていない・・・・・ガックリ。

そこで今期一念発起し、ターシャ・チューダーの庭に近づけるべく、あれこれ着手したのである。(ま、毎回そう言ってる割には何も咲いてないのであるが)
しかしその前にやることがあった。
今まで撮ってきた植物写真の整理整頓だ。
以前、こんまりさんの人生がときめく片づけ術についてアップしたが、片づける必要があるのは部屋ばかりではない。デジタルデータもだ。ことに、比較的まとめやすい人物写真と違って、とりとめなく撮った、今となっては何の意図か分からない植物写真を整理したい。

で、出てきた一枚がこれ。

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ズボラな人向けシンボルツリーとして人気の高いジューンベリーの、そのまた足元(株元)だ。
5月の撮影なので、もう雑草が生えてきているのが分かる。
と、思いきや。
ちょっと大きめの葉っぱは、自分が秋に植えたエキナセアの葉でわないかっ??
わたしはそのことを忘れ、雑草と思って抜いてしまった気がする・・・・・
植物に関心のない人には、もう、ほんとどうでもいい話しだと思うが、数日前にその可能性に気づいたわたしはガクゼンとしたのであった。
もったいないなあ、せっかく買って植えたのに。
あほだ、自分。
道理で、エキナセアの数が少ないと思った。

植物は、植えてしばらくすると姿形が変わってしまう。だから、ボンヤリしているとこういうウッカリが起こるってことだ。
・・・・ということに気づいたため、看板を作ることにした。

以下がその写真だ。
詳しいプロセスを撮影している余裕がなかったので、文だけで言うと、板を切って、アクリル絵の具で塗った。(ホワイトだけペンキがあったのでペンキ)
パレットは不要。新聞紙に絵の具を出して、ちょちょっと塗っていけばいい。
(学校で使う水性絵の具では、雨で溶けるからダメで、ペンキかアクリル絵の具)

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↓最初に描いたのがこれ↓

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アカエナってのは、限りなく雑草ぽいため、一番誤って引っこ抜きやすい。
なので、何枚作れるか自信はないながら、これだけは作っておこうと思ったやつ。

が、文字を書いてて、さっそく幻滅感に襲われた
なにせ、イメージしている字がうまく書けない。
ことに今の時代は、なんでもかんでもテプラで打つご時世。むろん、書類のたぐいが皆PCやタブレット、スマホからのプリントアウトになっているのは、どこもそうだと思う。基本、手書きの文字というのは嫌忌されているといっても過言ではないのだ。

ほんとイヤな気分だった。アルファベットはかろうじて耐えたものの、カタカナがヨロヨロしてやりきれなかった。

その時、脳裏に浮かんだキーワード。「完成度、人工知能、ロボット、人間駆逐・・・・
美しく完成度が高く、人間味が『ない』ものが優れてると、判断され、好まれること・・・・

そんなことでいいのかっ!!」 

ここらへん、唐突なようだが、手は動いていても頭の中はこういうのが蠢いていた。

最近はよく人工知能という言葉を聞く。せんだっても、将棋においてコンピュータは人間を超えたと、業界の人が勝手に勝利宣言し、この分野に興味をなくしたらしくて撤退していた。

つまり、
勝負ごとっていうのは、人工知能がもっとも得意とする分野ってことだ。なにせ、疲れを知らないのだから当然といえる。
それに、勝つか負けるかという結果の白黒がはっきりしている。
感情がないから、勝敗にまつわる心理的な葛藤もない。何から何まで人工知能が有利に決まっている。

いや、それはそれでいい。人工知能たって、作っているのは人間だろうから、一生懸命作っている人に難癖をつける趣味はない。

が、心が挫けて負けてしまうのは、なぜなのか?

そして思い出していたのが、20歳くらいの頃、コリン・ウィルソン経由でハマった神秘思想家グルジェフだ。

グルジェフが言っていたのは、「人間というのは特定の刺激に対して決まった反応をする機械であり、習慣の奴隷。であるから、日々毎日覚醒し生きねばならない。」(記憶の中の大意)

人というのは、もともとが機械みたいなもので、決まりきったルーチン仕事が大好きだし、決まり切った習慣で生きている。というのだ。

(よく言われる「人工知能が人間を追い抜く日が来るか来ないか」という問い。最初から大方の人間にはさしたる創造性もないし、最初から機械に近い生き物なのだから、そんな問い自体がナンセンスなのだ。)

そんなこんなもあり、20歳くらいのわたしは毎日「覚醒」するために、コーヒーを朝飲むのにも「これって単なる習慣?」と問い直さねばならなかった。いちいち全部を習慣ではなく覚醒するとなると、一挙手一投足を意識することになって本当に大変だった。

神秘思想は、当時たいへんに流行っていたものであり、ぬかるみにハマると「オウム」なんかに行くわけだが、わたしの場合、日々の覚醒が大変すぎたため諦めるのも早かった。けれどひとつ学んだのは、もともとが機械に近い人間が、どうやったら機械ではなくなれるのか?

少しでも機械でなくなれる時間を増やす。そういうのが大事なんだなと。

そういったことを学んだあの時期を手を絵の具だらけにしながら、思い出した。思い出して、自分を励ました。この、へたっぴで慣れない文字こそ、機械でない証拠だ!!
すごいすごい、こんなに書けた書けた、すごいよ自分。機械にはゼッタイ真似できない筆致だよ!!☆★☆☆

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って励ましたら、つぎつぎ出来てきたね。

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ネモフィラなんか花、そっくりだから。
コツは、水を使わず、筆をカラカラにして絵の具を付ける。すると、筆の毛の一本一本が花を表現してくれる。
もちろん精密画ではないのだから、ざっぱ。おーざっぱのフランク・ザッパ。

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だんだんと堂々たる字になってきた。Eの字なんか手塚治虫フォントかと思った。途中で筆が思うように動かずヘタになるけど、機械じゃない証拠だ!!と思って励ます。
ちなみに、エリゲロンの花びらも上記方法で、かなりそっくりになった。
(スペル間違えてるけど気にしないこと)

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最後の方は疲れてテキトーになってしまった。
けど疲れとテキトーも機械ではない証拠だ!! エラいエラい。
と、最後はかなりノリノリになっていた自分であった☆


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