巻上公一氏のを読んで2

前回、マガジン9条のインタビューを読んで、気になり出したことがあるので書いてみる。

本当は、自分の芸術活動そのものが、政治や自分の生き方と、強く関わっているということを、きちんと伝える必要があるのに。だって、芸術は芸術として存在しているなんてことはありえませんから。そういったことは昔から、文学でも音楽でも芸術の歴史を見れば、すぐにわかるはずなのに、僕らの世代がそうしなかったということは、ようするにみんな教養がないわけ。
ひどいことを言っちゃっているけれど、(苦笑)僕の世代は、哀しい事態だった。要するに逃げの世代、逃避の世代ですね。

芸術家氏がみずから反省するのは、大いにしてもらうとして、どうして「逃げの世代、逃避の世代」になってしまったのかというあたり、わたしはこの方よりも結構下の世代だけど、通じるところはあるので考えてみる。

もっとも抜きにして考えられないのは、自分らの親の世代が、子供時代をすごした時代が戦争の時代だった、ということだ。
太平洋戦争は1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)で、わたしの父は(昭和7年生まれなので)、9歳から13歳だった。

この時期の経験談は、人によって違いがあるのでいちがいにはいえないが、少なくともうちの父の場合は、飢餓の一言で、同時にそれは兄弟間すら敵対させたのである。

食い物をめぐって兄弟が争うとはどういうことか、「さすがに詳しくは話せない」とのことで、詳細は不明であるが、ことあるごとに父は子供のわたしに言ったものだ。

おまえらは幸せだ。食いたいものが食いたいだけ食えるのだから。

この時代をすごした人の大きな特徴は、何度でも機会あるごとに被害者的な話を脅迫的に繰り返すということで、同じ話をクドクド何度でも繰り返すその姿は、あまりにも強烈な体験をしすぎて、脳のどこかが損壊したのではないかと、疑うほどだ。

が、事実、気の毒なのは確かで、できるならもっと幸福な子供時代を父に過ごさせてあげたかった。
それを思うと、胸がかきむしられるくらい悲しくなる。

といっても、わたしの中にそんな気持ちが少しでも目覚めたのはかなり後の時代で、子供の頃のわたしは父の怨念のはけ口で、それに相当に押しつぶされていたから、やさしい気持ちとは無縁だった。

いわば、戦争の二次災害、三次災害のようなものが、表の歴史とは別のところで進行していたのである。

各世代には、「新人類」とか世代名が付くことがあって、わたしの時代は「しらけ世代」だ。
けど、今思うと、白けていて当たり前だと思う。
自分らがどんな経験をする(した)にしろ、親が体験した経験に比べればちっぽけ過ぎて、語る価値もなく、無意味、という感覚。

押しつぶされていた。
「しらけ世代」の他の名称として「三無主義」というのがあって無気力・無関心・無責任を意味する。

もっとも、わたしの頃はすでに「三無主義」も言い古されている時代で、「おまえらは三無じゃない、五無主義だ六無主義だ」と、どんどん増えていった。

逆にこれがなかなか面白くて、わたしも辞書をひいては、「ホラホラもっと無のつく言葉あるよ! 六無主義よりももっと多いよ」と、「無感動」「無抵抗」「無批判」「無能力」「無作法」「無学力」「無教養」「無節操」「無定見」「無思想」と(以上面倒なのでここから拝借)しては喜んでいた。
こういうのは、共感して喜ぶ人間(おもに同級生)の数は決して多くはないが、喜ぶやつはものすごく喜ぶ。もちろん、自分のツボにも大ヒットするのでうれしい。

そんな中、この世代の価値観は二極化していったといえるだろう。
オタクと学歴偏重だ。

ってことで、これから高校の三者面談があるので続きはまたあとで☆

 

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