ひとり日和 / 青山七恵 / 文藝春秋2007年3月号

ひとり日和

ひとり日和

グランド・フィナーレ沖で待つ八月の路上に捨てると、割りとコンスタントに同一テーマでエントリしているので、それなりに愛着のわいた芥川賞レビュー。今回もいってみようやってみよう!とのっていたわけであるが、今回は今までと若干オモムキが違っていて、なんと今をときめく石原沈太郎(選挙期間中につき仮名)がほめているのだ。これはたいへんにめずらしいことだ。でもなんかねえ、どうなんですか?その時点でもう文学的にダメなんじゃないかっていう心配も浮かんでくるし、だいたい、誉めるって誰に誉められても嬉しいってもんじゃなくて、相手によるってのもあるし、ハッキシ言って石原氏、都知事選挙シーズンに合わせて好感度アップさせようって魂胆かもしれないし、そうでないとしても、自分のために誉めてんじゃないかっていう邪推も生まれるわけで。

これは先入観なしで読むの難しいな、と思っていたら、今度はTVブロスのブックレビュウ「金銀鉄の斧」でおもいきし鉄槌くらわされていたので、可笑しくってお腹が痛くなった。いや、鉄槌くらっていたのは石原氏だった記憶もあって(雑誌が手元からなくなっている)、石原氏は「ビビッド」とかそういうお間抜けな言葉で誉めていたそうだ。

そういうことで☆一個クラスの鉄の斧?なら、別に読まなくてもいいか? と思っていた。

それから数週間。NANAの1巻を返却に職場の図書館に寄ったら、南さま(この雑誌を毎月寄贈しているかんじゃさま)が持ってきてくれたらしく、3月号が書棚に並んでいた。この雑誌は、いつも3、4冊並んでいて、古い号から処分されている。借りるなら今借りてしまわないと機会を逃してしまうと思い、専用のノートに署名して借りた。春の光があふれるように降り注ぐ、きれいな朝だった。
朝は朝でも夜勤明けの朝なので、そのままのんびりと平和な気持ちで帰った。余談だが、帰る途中、車にはねられたらしい猫の死体を、危うく踏んでしまうところだった。ぼんやりしていたので寸前まで気が付かず、飛びすさりそうになりあわてた。といってもわたしの神経系はさほどの打撃を受けたわけではないらしく、数メートル先にある無人野菜置き場で、間引きされた春大根の束をみつけたので喜んだ。間引き大根は、千切りにして葉っぱとともにゴマ油で炒めると、めっちゃうまいのだ。

しかし、それは夜にやろうと思い、アケなので一眠りした。
夕方になって家の中が、帰ってきた子供達で、ガヤガヤし始めた。
あの猫の死体も見たらしく、興奮気味で喋っていた。
誰も犬猫遺体収容依頼の電話をかけていないってことだ。あの猫には目立った損傷はなかったものの、目玉がいくぶん飛び出てカッと見開いていた。道の端に寝そべっているポーズだったので、誰かが道路の中央から引きずって端に寄せた?等々、いろいろ想像を巡らした。それにしても、猫はよく道に飛び出す生き物だ。わたしは飼い猫には興味はないが、道ですれ違う猫にはとても興味がある。なぜなら、猫が道を横切ると、そこだけ野生の森があらわれたような、景色が二重になるからだ。

むろん、そんなのはレビュウと関係ない。でも、自分の見たものをタラタラ叙述するのって楽しい。変な感想を書くよりも。
というのも、「鉄の斧」の後、ネットで今度は誉めている書評を読んでしまって、これって何だか対石原リトマス試験紙? 派閥の抗争? 問われているのは政治思想? それとも真面目に文学観? と考え出してなんだか億劫になってしまって。

……冒頭の2ページを、最初突破できなかった。「ここ、あなたの部屋ね」とおばあさんらしき人物が言うせりふの意味が、「ここをあなたの部屋ということにしたから、使っていいわよ」(これが正解)という意味とは把握できず、「ここはあなたの部屋なの?」という疑問形にも、ただの感想の言葉にも受け取れ、何を言っているんだ?こやつらは?と、意味不明になったからだ。その他、描写として、駅のホームの前の家なのに電車の音についてほとんど触れないなど、わたしの感覚とズレていて、状況をつかむのに難儀した。エトセトラ
しかし、なんどか読み直して、最初の数ページを突破すれば、必ずしも貶しまくるほどでもなく、それなりに愛すべき個所も多い作品だ。とくに、「」でくくった文章には(村上氏も評していた)、小説のネライを飛び出しそうなほど生き生きした個所があり、ここらが「ビビッド」なのか知らないが、吟子さんとの会話などは、いっそ小説の本来の意図とは別に年寄りと若者のコント作品にしてほしい面白みがある。しかし、それをやってしまうとこの作品は破綻する。この作品のねらいは、やはり、あくまでも真面目な(そして、上手い)文学作品なのである。

でまぁあとは苦言になるが、主人公(知寿)の味わっている幼少時から現在までの状況を考えると、どこにも爆発がない。あえていえば、ちょっとした物を盗んでしまうごく控えめな盗癖があがなってはいるとはいえ、爆発がなさすぎてウソくさい。知寿と作者は似たところがあるはずだが、作者には小説があるが、知寿にはないのだ。

第一、次々に男(たち)に振られる割りには、簡単に乗り越えすぎている。彼女が振られる理由は、面白みのない、話題のない、口の重い超つまらん女子だからで、そこらへん、文学でなくても、今どきの女子はもっと真剣に悩んでいる。

だんだんと、彼女の精神は安定に向かい、だんだん上向きになって、なんとなくオトナへ一歩近づくのだが、その直接のキッカケは、バイト先の会社から言われた「正規雇用」の話だ。できれば、他のことでそうなってほしかった。もちろん、正社員になることは、いろんな意味で素晴らしいし、今の時代は昔のような「反社会」的スタンスでいられるほど暢気でいられない時代なのだとは、思うが、もっと違った何かもほしかった。これでは、正規雇用を促せる東京都の施策を遠まわしに誉めているようなものともとれる。(もちろん本人にそんな気ないだろうが?)
ついでに言うと、日本には東京を中心とした関東しかないみたいな作品になっている。
(石原氏がほめちぎるのは無理もない。しかも、知寿は「東京都庁」が「好き」だったりするし、知寿は知事と言い間違えそうだし、そう考えると対石原で戦略を練っている勝負師かもーである)

作者の女性観はあまりにも資生堂とかカネボウとかの、つまり企業が喜びそうな、典型的にカタログ的な美意識の肯定で成り立っている。作者が、それらの社会通念にまったく疑問をもっていないことに、疑問を感じる。
また、一番えらいのは、吟子さんで、こんな女の子が突然やって来て、こころよく同居したのは吟子さんが本当にエライからだけど、このエラサが分っていない分、知寿に対して甘い。

吟子さん(71歳)の像はとてもいいと思うが、最後にいう「世界に外も中もないのよ、この世はひとつしかないでしょ」というセリフには、共感できない。だいたい、世界と世の中は違う。世界、社会、世の中、それぞれ違う。
それでも所々いい線いっているのは、「話を盛り上げる努力をしない三人」と、お喋りで成り立つ(成り立たない時もある)関係性に書き及んでいるからで、成り立って仲間意識をもてたり、成り立たなくて成り立たそうと焦ったり、そうやって出会うのが世の中だ。世界をすぐに「ひとつ」とみなすのは、中途半端な宗教の教義ではないだろうか?

と、次世代的に吟子のわたしは、思った。

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