「人の“いのち”に命をかける」とか、適当なことばかり言っている昨今の政治家
ちなみに、立花氏の最新号は、<安倍教育改革「負の遺産」 「哲学」の崩壊は憲法問題>とのことで、なんでも大学から哲学科がなくなるそうで、氏は大きな危機感を抱き、全共闘世代であるはずの今の大学教授よ、この状況を座視するなああ!とはっぱをかけている。
安倍のもとでは、さもありなんな話なので、同情してしまった。
たとえば安倍首相のいうセリフには、ひっかかるものが多い。
いったい、いつ誰が期待したのか、具体的に誰のダレベエの期待を感じたのか、固有名詞まで教えて欲しいほどだ。
もちろん、外国の知り合いの誰かに頼んで期待してもらった、とか、外国の知り合いが社交辞令で「期待しているあるよ」とか言ったのは、勘定に入れてはダメに決まっている。
しかし、「人の“いのち”に命をかける」とか、適当なことばかり言っている昨今の政治家をみると、ちゃんと「哲学科」のあった時代に青年時代を過ごしていただろうに、役にたっていないのだなとも思う。それとも、年をとると老化現象の一種で、頭のネジが多幸的に緩むのだろうか?
それを言うと、同バックナンバーのうち<第100回 地球存続のカギ握る「核融合研究」最前線>などを読むと、「地球存続のカギ 」というよりは、「文明存続のカギ」、それも「電気に依存した文明」の存続を指すと思われ、別に地球は核融合研究がうまくいってもいかなくても、存続すると思われる。
よく、週刊誌の見出し(中吊り広告)が、大げさに煽り立てたあげく、本文を読むと全然違っていることがある。
これは、煽情的な見出しにすることで、読者の「読みたい」「知りたい」欲望を刺激し、週刊誌を買わせようとするものだろう。実際の事実は地味なものが多いから、それをそのまま見出しにすると、仮定形とか疑問形ばかりになって迫力に欠ける。読者は、そういう事情を分って慣れているので、本文が違っていても怒らず、「週刊誌の記者や編集者にも生活があって大変なんだろうねぇ。売れなくてつぶれたら、きっと妻子が路頭に迷うってやつ? だからこんなものだよね」と、心の広い「大人の理解」をしているのだ。
わたしが最近思うのは、それはもうやめた方がいいのじゃないか、ということ。
少なくとも、安倍政権のうちは。
というのも、アベンドのような、「生活」をまったく知らない完全なるボンボンは、大人の理解の仕方をするのではなくて、「そういう言い方をしておけば世の中それでとおるのだ」「民衆とはそういうものなのだ」と思っているとしか、思えないからである。ましてアベンドの場合、岸信介?とかああいう大物保守政治家の孫であったため、学力が低くても、誰もぜったいにバカとかアホとか言わず、おべっかばかり言われているうちに、自己像形成に難が生まれ、本来なら各自それぞれある程度は哲学的思索を自然と行い、「なぜ生きているんだろう」とか「人の上や下に人がいるのはなぜなのか」「死ぬとどうなるのか」などなど考えるはずであるが、あんまりその形跡がない顔なのである。
適当なことを言っておけばそれで通る、という風潮(たぶん儲かる論法?)から、より意味の厳密さや哲学的思考法を求める方向へ、今一度揺れ戻すべきではないだろうか。
そのうえで、本格的な哲学は大学でちゃんとやるようにしたら、どうなんだろう。