「人の“いのち”に命をかける」とか、適当なことばかり言っている昨今の政治家

米メディアが警戒する安倍首相初訪米の中身意味がなくなる日本の対米従属について何か書こうと思い、サイドバーにリンクしていたものの、時期を逸してしまった。
ちなみに、立花氏の最新号は、<安倍教育改革「負の遺産」 「哲学」の崩壊は憲法問題>とのことで、なんでも大学から哲学科がなくなるそうで、氏は大きな危機感を抱き、全共闘世代であるはずの今の大学教授よ、この状況を座視するなああ!とはっぱをかけている。

安倍のもとでは、さもありなんな話なので、同情してしまった。
たとえば安倍首相のいうセリフには、ひっかかるものが多い。

国際社会の期待に応えたい=イラク特措法期限延長で首相

いったい、いつ誰が期待したのか、具体的に誰のダレベエの期待を感じたのか、固有名詞まで教えて欲しいほどだ。

もちろん、外国の知り合いの誰かに頼んで期待してもらった、とか、外国の知り合いが社交辞令で「期待しているあるよ」とか言ったのは、勘定に入れてはダメに決まっている。

しかし、「人の“いのち”に命をかける」とか、適当なことばかり言っている昨今の政治家をみると、ちゃんと「哲学科」のあった時代に青年時代を過ごしていただろうに、役にたっていないのだなとも思う。それとも、年をとると老化現象の一種で、頭のネジが多幸的に緩むのだろうか?
それを言うと、同バックナンバーのうち<第100回 地球存続のカギ握る「核融合研究」最前線>などを読むと、「地球存続のカギ 」というよりは、「文明存続のカギ」、それも「電気に依存した文明」の存続を指すと思われ、別に地球は核融合研究がうまくいってもいかなくても、存続すると思われる。

よく、週刊誌の見出し(中吊り広告)が、大げさに煽り立てたあげく、本文を読むと全然違っていることがある。
これは、煽情的な見出しにすることで、読者の「読みたい」「知りたい」欲望を刺激し、週刊誌を買わせようとするものだろう。実際の事実は地味なものが多いから、それをそのまま見出しにすると、仮定形とか疑問形ばかりになって迫力に欠ける。読者は、そういう事情を分って慣れているので、本文が違っていても怒らず、「週刊誌の記者や編集者にも生活があって大変なんだろうねぇ。売れなくてつぶれたら、きっと妻子が路頭に迷うってやつ? だからこんなものだよね」と、心の広い「大人の理解」をしているのだ。

わたしが最近思うのは、それはもうやめた方がいいのじゃないか、ということ。
少なくとも、安倍政権のうちは。
というのも、アベンドのような、「生活」をまったく知らない完全なるボンボンは、大人の理解の仕方をするのではなくて、「そういう言い方をしておけば世の中それでとおるのだ」「民衆とはそういうものなのだ」と思っているとしか、思えないからである。ましてアベンドの場合、岸信介?とかああいう大物保守政治家の孫であったため、学力が低くても、誰もぜったいにバカとかアホとか言わず、おべっかばかり言われているうちに、自己像形成に難が生まれ、本来なら各自それぞれある程度は哲学的思索を自然と行い、「なぜ生きているんだろう」とか「人の上や下に人がいるのはなぜなのか」「死ぬとどうなるのか」などなど考えるはずであるが、あんまりその形跡がない顔なのである。

適当なことを言っておけばそれで通る、という風潮(たぶん儲かる論法?)から、より意味の厳密さや哲学的思考法を求める方向へ、今一度揺れ戻すべきではないだろうか。
そのうえで、本格的な哲学は大学でちゃんとやるようにしたら、どうなんだろう。

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