クラスター爆弾

5月16日にシンポジウム 「クラスター爆弾禁止にむけて」が開かれた。主催は地雷廃絶日本キャンペーン
そのレポートは、協賛している毎日に
クラスター爆弾:禁止にむけて

それによると、出席者のひとり、今西靖治・通常兵器室首席事務官いわく
「オスロ会議で日本は消極的とされたが心外だ。」
とのことで、心外だそうだ。その理由は
「議論には積極的に参加している。」
議論に積極的に参加というのはまさか、顔を膨らませたとか、日の丸模様の背広で存在をアピールとかではなく、色々と「発言」したという意味かと思われる。
「核軍縮で核を保有する米露が入らない条約は意味がない。クラスター爆弾でも保有国が入らない条約はどこまで実効性があるのか。多くの国がかかわるCCWで議論を前に進めたい。」
とのことで、つまり?核軍縮で核を保有する米露が入らない条約は意味がないから、日本は、賛同しなかった、ということらしい。

意味があるとかないってことじゃなくて、日本の考えを示す、ということを希望しているんだけど。

意味ないとかいったら、兵器全体の意味がね… わたしの理解の仕方は、人間の生きる世界は、ぜったいに暴力はなくならないから、暴力との関係性の中で、もっとも理性の働いた兵器の所有の仕方を行う、ということで。
同時に、暴力は、肉体に働きかける暴力だけが暴力ではなく、精神に働かす暴力もある。これはおもに、言葉によるものが多い。ややスジの違う話になるが、わたしのしょぼい経験だと、ある時、通りすがりに鋭く「バカ」と言われたことがあった。この時、てっきり頭を殴られたかと思い頭をおさえそうになった。わたしは、その人にバカと言われる因果関係を持たなかったので、たいしたトラウマにならなかったものの、ある程度あったら、本格的な暴力として機能していただろう。(しかし、恐怖感は残った)

こういったことは、兵器だけが兵器なのではない、ということを示すと思う。

暴力だけが、暴力に対抗する手段ではない、ということも。

はじめて知ったが、自衛隊もクラスター爆弾を所有している模様。敵が上陸してきた時を想定してのことらしい。これについて軍事評論家・青木謙知氏いわく
「大量の部隊が進軍してきた場合やその拠点に対し一網打尽に効果を与えることができる。しかし、現実にどれくらいの可能性があるのか。航空自衛隊が高性能の戦闘機を持っているが、現実的に考えれば爆撃機が攻めてくる可能性は極めて低い。しかし、備えあれば憂いなしの観点で態勢をとっておかなければならない。」
え? そうなん? と思ったら
「クラスター爆弾の保有については、本当に必要なのかの論議が必要だろう。特に日本は専守防衛が基本。日本国内で使用ということになれば、不発弾の問題がある。本当に外敵だけに被害を与えられるのか。日本の側に問題は起きないのか。そのような不確定要素が他の兵器に比べると多い。」
つまり、「備えあれば憂いなし」VS「日本の側に被害が起きる可能性」。

どちらも日本にとって有意義な観点かと思うが、どちらも仮定の話なので、今現在被害が生まれつづけていることを優先的に考えていいのではなかろうか。

やはり、日本はオスロ宣言を支持するべきではないか?
そして、日本がオスロ宣言を支持となれば、自衛隊もクラスター爆弾を廃棄しなくてならない。
この時重要なのは、ただ廃棄するだけではなく、きちんと、廃棄する理由を明確に日本語と英語で構築し、内外に示すことだ。

そしてさてさて、クラスター爆弾の代わりに何を持ちたい、かにを持ちたいという話になるのか?

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