いい子は家で

いい子は家で


随分以前にReadingバトンを回してもらった時に「好きな作家」として挙げた三名のうちの一名にして、もっとも海のものとも山のものともつかなかった新人作家。なにせ、出している本が『四十日と四十夜のメルヘン』の一冊しかなかったのだから。でもって今回やっと二冊目が出たので買ってみた次第だ。前作『四十日と四十夜のメルヘン』とその中に収録された「クレーターのほとりで」は、いかにも文学的価値が高そうなところがあって、さまざまなレビュウが興奮気味に現れたし、わたしもこれほど面白い小説は久々に読んだという充実感に酔いしれたものであったが、今回はそんな熱気をうむ余地はあまりないかもしれない。第一に舞台が地味である。舞台は家の中であり、事細かに描かれているのがこまごまとした家事労働のあれやこれやで、さして面白いものではない。「いい子は家で」「ふるさと以外のことは知らない」「市街地の家」と、三篇収録されているうち、一作目の「いい子は家で」が途中シュールリアリズムという言い方でいいのか不明ながら、見慣れた光景の描写から離れ、見たことのないあり得ない光景の描写へと移るので、そこらへんだけが変化であるが、あとはどうってことない、といっては乱暴だろうか。

そんなであえて人に薦めようとは思わない本であるが、ある小気味良さがあることはあるのは、これほどまでに主婦のやることなすことを書いた作品はそうはないだろうからである。たとえば村上春樹などは、家事労働の中で料理や食品のことをよく描写する。確か、『ノルウェーの森』か何かに書かれてあった、ニンニクをオリーブオイルで炒め缶詰のトマトホールを加え塩で調味する、というパスタソースは、わたしもその後何度も作った簡単メニューだし、また村上春樹は、冷蔵庫の中をよく描写していた気が。あるいは、吉本ばなながそのものスバリ『キッチン』という作品を描いていて、あれは確か「キッチンが世界で一番落ち着く場所」であるところの女性(少女だったか)が出てきて、もっともありふれた日常空間である台所にスポットライトをあてていた。そんなで、家事関連が文学的に避けられているというわけではない。けれど、『いい子は家で』に書かれる家事労働には料理関係はほとんどない。あるのは主に、靴洗いや保険の支払いや掃除や洗濯である。料理ならまだしも食欲という性欲と並んで人間の根源をなすキラビヤカな快楽中枢を刺激する要素があるため読む快感とも結びつきやすいわけであるが、洗濯や掃除ではそれは困難をきわめる。洗濯や掃除やその手順へのこだわりなど、書くべき価値をもたない。それに、吉本ばななや村上春樹は、美味しい料理やキッチンの様子を書くことをメインとしていたわけではなく、本筋で描かれていたのは人間、あるいは人間同士の関係が織り成すさまざまな位相であった。が、青木淳悟の場合、そんなものも別段ないので、本気で母親のやっている家事労働がこれでもか、これでもかと描かれるのである。その母親も特に変なことは言わない。家庭の中ではどんな人間もそのイビツさをさらけ出すはずであるが、読者がこの母親に対して悪感情を抱くようなセリフは一言も描かれないので、この母親を一個の人間とみなすような言質はひとつもない。でありながら読者は、というかわたしは、この母親のやることなすことにいちいちと激しい鉄槌を下しながら読んでしまっていて、いい年をした息子のスニーカーを熱心に洗っている姿はほとんど変態じみて感じられ、「馬鹿じゃない、そういう母親の態度がオトコをダメにするんだよっ。自分で洗わせなくちゃダメなんだよ」とか「いちいち息子が出かけるたびに玄関まで送り出してんじゃないよ」等々。あるいは、こんな一文「ともあれ食器洗い機も全自動洗濯機も衣類乾燥機もあるいまの世の中、高度成長期以前からずっとかたちを変えていない家事労働はほとんど靴洗いくらいのものだと思われるのだが、そういう数少ない純粋な手仕事だからこそ、靴に対する情緒的な思い入れといったようなものが一層強化されるのかもしれない。」残念でした、スニーカーくらいなら洗濯機で洗ってしまう人は大勢います。最低でも乾燥を洗濯機でやってしまう人は。といった具合に、ちょっと悪意に近い気持ちが湧いてくるのは、一体どうしたことか。わたしは子供の靴など洗ったことはこの20年間でも数回しかない。そんな面倒なことをしたくない。耐えがたいほど汚れたときにはもう子供の足は大きくなっているので、買い換える必要が生じ、洗わないですんでいる。上履きの場合は子供自身に洗わせるようにしているし、「わかった」といったきり子供が洗わなかった場合は、そのまま汚れた上履きをまた持っていくことになる。おそらく評価する人によっては、わたしの方が異常で、わたしは立派に侮蔑の対象になる。

それと同じように、わたしはここに描かれる母親を侮蔑しないではいられないのである。男女同権に反するとか、そんな次元ではなく、あくまでの主婦の価値観として。しかし、この母親がもう家を出て行った一人暮らしの長男に、惣菜を作ってタッパーに詰めせっせと運んでやる姿は、自分もやってしまいそうだと想像する。ここに出てくる兄弟は不仲なので、母親にとってもっともイヤな展開であるが、そのような影を描くことをしないのは、たぶん単に青木淳悟が母親のそこまでの心理に思い至らないからかもしれないし、それ以前に心理描写など計画に入っていないからかもしれない。

何にしろ、これだけの密度をもって家庭内のあれこれを文字で埋め立てた執念は、これは母親への執着というものなのか、ほかの何なのか不明ながらアッパレだ。わたしの感触で言うと、母親サイドの息子への執念が、逆照射されたように見える。全体になんとなくイライラする。否定の念がなさすぎるせいかもしれない。この母親の、日本で一番有名な主婦サザエさんをリスペクトしているようなノホホンぶりがまた腹立たしい。

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