映画『レヴェナント』を観た!
「レオナルド・ディカプリオがとうとうアカデミー主演男優賞を受賞したよ!!」と、ディカプリオ好きの映画友達Wさんにメールしたのは2月の末だ。
《この映画は大自然を体感するためぜひとも映画館で観ましょう☆記事の続きは観た人だけあけてね。》
ディカプリオ主演に限ると『インセプション』『華麗なるギャツビー』『ウルフ・オブ・ウォールストリート』をWさんと観に行った。
毎年毎年、今度こそ取れるか?!と噂されながら、他の名優たちに主演男優賞持って行かれていたディカプリオ。(こんな感じでからかわれw)たとえばウルフ・オブ・ウォールストリートの2014年は、同作品で共演もしたマシュー・マコノヒーだ。マコノヒーは名前からして名優ぽかったが演技も相当本格的な印象を受けた。マコノヒーと比較するとディカプリオはスターではあっても役者としては落ちるなと感じたものだ。
今回ディカプリオがアカデミー主演男優賞と聞いたときは、「同情票で受賞できたんじゃないか」って思ってしまった。
が、違った。それは本編が始まってすぐに気づいた。
映像は、現代のファッションとも風俗とも都市ともほど遠い、大昔っぽいワイルドな時代感で始まった。
が、今と共通するものがないわけじゃない。
風、雲、うす青い空、沈みかけた太陽。
すぐさま戦闘シーンが始まって、何人も銃撃されたり矢が刺さったりして倒れる。銃があるのでさほど昔ではないなと思った。すぐにアメリカインディアンが登場したことで、開拓時代のアメリカとわかってくる。
戦いのシーンがとても長い。何と何が戦うのかはさまざまだが、平和的じゃないシーンがとても長い。
いや全編がそうだ。
それにも関わらず、この景色の美しさはどうだろう?
遠くの雲と空。暮れかけた時間。ずっと昔に、確かにこんな時間があったんだろうと思わせる。戦いがあって、誰かが死んで、誰かが悲しんだろうに、その記憶すら消え去った。
その時も、こんな太陽が照っていたに違いないし、こんな風が吹いていたんだ。
さっき、アメリカインディアンといったが、この時代にアメリカ開拓民がインディアンに対してやったことは相当にひどい。
アメリカ人だって積極的に思いだそうとはしない時代だろう。
しかもフィッツジェラルドのセリフにあるように、「神が知っているんだから」とか言って正当化。
それ言ってたらどんな悪事も肯定できちゃう。起きてしまったことに対して「全能の神が知ってて止めなかったなら、いいよね」と。なんてことだ。そんな屁理屈がまかり通ってしまうのが宗教(この場合とくにキリスト教)だというなら!!
そんなでこの映画はいたって地味な映画だ。アカデミー主演男優賞を取り逃がし続けたディカプリオだからこそ観客動員できた映画であって、他のどんな名優だってこういう映画を見せるのは難しいのじゃないか。
ここまで引っ張って引っ張って引っ張ってきたのは、ひとえにこの映画を人々にみせるためじゃないか?
激しい戦いのシーンをカメラは、観ている観客もその戦いに参加しているようなアングルで撮ってくる。川の冷たい水をいっしょになってバシャバシャ蹴散らしている感覚。いっしょに必死になって防戦したり逃げたり発砲したりしている感覚。
それは一番にディカプリオがそうで、もはや演技している感がほとんどなかった。過酷すぎる大自然の中を必死に生き延びる姿は、演技という言葉がふさわしくないほど本当にそうしている。積雪の中でころがったり川に飛び込んだり生魚食ったり裸になったり走ったり・・・・・ ばらしちゃいけないんだけど最後のカメラ目線が自然なものに思えた。いくつのかの感想が「アカデミー賞ちょうだい目線」といって嘲笑気味なのだが、それで何が悪い。
過酷な自然の中に映画作りのためとはいえ本当に生きたのは確かで、過酷な自然なのは、針葉樹林の森もハリウッドも似たようなものかもしれないのだ。
そして何より「あなたもこの映画を一緒に生きましたよね?」という目線ではないだろうか?
復讐の相手も地味な相手なら、物語展開も戦いが多い以外に派手なものはない。ディカプリオもかっこいいとか美しいとかいうスター性はかなぐり捨てている。いってみれば風の音を聴きに行く。雪と風を体験に行く。GPSもスマホも持たずに極寒の雪原を歩きに行く、そういう映画だ。