乳と卵 / 川上未映子

昨年の9月、『わたくし率 イン 歯ー、または世界』を読んで一言感想を書いた。あとセブンアンドワイの自分のコーナーにも簡単かつ軽妙なつもりに感想を書いた。
その時は、次回作があったら真面目に感想を書くってことでお茶を濁し、「次回作はなかなか来ないだろう」なんて勝手に高をくくっていたわけだけど、案外とすぐに出てしまって、しかも芥川賞までとっていたのだから、びっくり仰天の介だ。


そんなで、職場の図書館で久しぶりに芥川賞発表の文藝春秋借りて読んだ。書籍ではなくこっちで読むメリットは、なんといっても石原慎太郎が何を言ったのか確認できる点だ。今回もなかなか読み応えのある論評をかましてくれた。曰く
「受賞と決まってしまった川上未映子氏の『乳と卵』を私はまったく認めなかった」≪「まったく」ときたもんだ≫
「どこででもあり得る豊胸手術をわざわざ東京まで受けにくる女にとっての、乳房のメタファとしての意味が伝わってこない。」≪だってメタファなんて関係ないもん≫
「前回の主題の歯と同じだ」≪だからメタファじゃないって≫
「一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい」≪不快で聞き苦しい思いをさせるのはそっちも得意なくせに≫
「この作品を評価しなかったということで私が将来慙愧することは恐らくあり得まい。」≪将来慙愧することは他に沢山ありそうだしネ≫
「どこででもあり得る」と言い切ってしまうところが石原慎太郎のすごさで、そりゃあなたのおダキになる女性は当たり前に豊胸手術をしているでしょうよ? 石原慎太郎にとって「女性」とは、姿形、振る舞い、言動、心のあり方、すべて型が決まっていて、そこからはみ出た女性は不快で、見苦しく、聞き苦しいのだろうから。「わざわざ東京まで受けにくる女」と、わざわざ「わざわざ」と付けるとは、まったくもって東京を自分のものと勘違いしている証左で、日本人が日本国内どこへ行こうと勝手だろう。東京はあなたのものではないのですよ。
アホらしいので気をとりなおして本題に入る。
作品は前回と同様大阪弁の喋り言葉で進行する。気のせいか、前回よりは考え考えしている感じがあるため、滑らかな勢いには欠け、ちょっとつまらなく感じた。しかし、前回にあった「いじめ」のようなものはない。また、この主題のものにありがちな、女性ならではの被害、レイプや、性的虐待、望まない妊娠などは出てこない。出てくるだけで痛ましいそういうものは、読む理由となって先へ先へと読みを引っ張るわけであるが、潔くほぼ完全に排されている。
その代わり、それら虐待系列ほどではないとはいえ、れっきとした被害は出てくるのだ。「わたし」の姉で、大阪から東京に「わざわざ」出てきて豊胸手術をしようと考えている巻子、

『子どもが出来るのは、突き詰めて考えれば誰のせいでもない、誰の仕業でもないことである、子どもは、いや、この場合は緑子は、というべきだろう、本質的にいえば緑子の誕生が、発生が、誰かの意図および作為であるわけがないのだし、孕むということは人為ではないよ』

と「嘘くさい標準語で」元夫に言い放たれているのだから、これを被害と言わずしてナンと言うか。また、流暢な大阪弁の中、ここだけを標準語とした鮮やかな効果に脱帽する。わたしも、系統としてはこういう屁理屈で言い逃れようとするタイプと付き合ってしまうため、忘れかけていた男への憎しみが湧きあがる思いがした。うわうわうわーーーぞーっとするいやな男ー氏ねーー!!!!!!
(いや、ことによればここは、元夫のスカシぶりを笑うところなのかも知れないが、わたしにはとうてい笑うことはできなかった)
しかし納得できない個所もあった。声で話すことをせず、筆談でしかコミュニケーションしなくなった緑子が、卵のぶち割り合戦で治ってしまう、問題解決してしまうところ。そんなに簡単にすむなら誰も苦労しない。緑子は別に虐待のようなことをされているわけではないから、もともと深刻ではないし、その親である巻子も特に何かを間違えたわけではなく、真摯に生きているので、その通り緑子はまっすぐな人間として育とうとしている。とはいえ、だからといって、卵ぶち割り程度のくだりで話し始めてどうする? 緑子のつまづきは実存的なものであって、決して因果関係の因が解決すれば声を出し始めるというものではない。と、わたしは解釈しながら読んでいただけに、ガッカリした。
ここらへん、他ブログの感想を読むと小説の「構成」として捉え評価している方々が多かった。たしかに、構成と考えれば、緑子が話し始めることで俄然、爽やかな作品になった。けれど、緑子の悩みはそんな程度のものであったろうか? 緑子の悩みは、乳と卵に象徴される「女性ならでは」の悩み、という次元のものではない。生命の仕組み、生命の宿命、生命が仕掛けた罠、未知なる生命の全容に対する怖れだったり違和感だったり憎悪だったりするもので、そこへ、母親への心配(ここは泣かせる)と、やはり母親への嫌悪やらなにやらが絡んだものだ。そう簡単に決着が付いては困るのです。
とはいっても、この作品は長さで言えば短篇なのでそこまで要求すべきではないかもしれないので、視点を変える。
巻子はなぜ豊胸手術熱に浮かされていたのだろうか。それは分らない。「オレオ」だからだろうか。
作中の、(豊胸手術なんかしちゃうのは)男性中心にしか考えられないバカvsちがうだろバカ、のバトルは、とても生き生きしていて、罵詈雑言の言い合いになるとやたらと生きが良くなるのが面白い。このバトル自体は古典的なものであるが、まだ答えは出ていないだろうから尚更だ。そして、実のところ、豊胸ope熱の正体は何なんだろう。「オレオ」や「アメリッカンチェリー色」になってしまった産後の自分のカラダへの抵抗なのだろうか。美しい乳房に男性の視点を通して、あるいは通さずに、恋してしまったのだろうか。
たぶん、アメチェ色になった乳首を見て元夫は逃げ出した、と考えて妥当かとおもう。思いやりのカケラもなく、生命の驚異を目の当たりにしてトッとと逃げ出すくらいのことは、ヤロウってやつはするのである。(私憤)
しかし、対元夫、対男性への心境はあまりはっきり書いていないので、どれくらいの恨み節を抱えているのか分らない。あくまで推理の範囲だ。おそらく、対男性というのは、さしてテーマではないのかと。
ただわたしは読んでいて、実は「わたし」って元夫と、関係があるんじゃないかって、下衆な勘ぐりをした。
あと、「わたし」の胸って、ほんとは「オレオ」以上のエンゼルパイ(通常サイズ)だった、という「オチ」じゃなんじゃないかとか、くだらないことを考えてしまった。これは変なエンタメに毒されたエンタメ病かもしれないし、「わたし」が報告者すぎる構成だからかもしれないし、わたしがダメ読者だからかもしれない。
まとめに入る。
現代の言葉は広告の言葉やIT業界の専門用語が溢れんばかりで、それだけで言語の密林を成しているため、そうではない言葉「だけ」を使って表現している、こういう作品を読むと、最初なかなか馴染めない感じがあるとともに、いかに自分が毒されていたかと気づくのである。もっともここでは、「オレオ」が出てくる。けれど、その他にダラダラと広告業界の(買わせるための)言葉が出てくるわけではない。また、携帯や電子辞書といった現代人の好物のガジェット類も、きわめて控え目、最低限の肌の露出で効果を上げる女優のような描写の中にある。となれば、あとは何も心配せず、自由にこの世界の中で遊べばいいだけだ。
その点に関して、作者本人があまり露出しないでくれた方がウレシイかと思うけども、そんなノンキな事を言っていたら商売上負けてしまうのであろう。
文藝春秋における作者のインタビューが、あまりに輝きすぎていたため、もう少し作家にはくたびれていてほしいと思ってしまったが、それは古典派の考えであろう。ただ、見かけも美人で才能溢れる才色兼備(古)で、哲学志向のピュアな精神性を感じさせる、となると、これは相当に足を引っ張るやつが出てきそうなので、今後の展開が楽しみである。
ちなみに、さっそくニコンに高級デジカメを持たされ、写真に文章を添えていた。それもどうかなと思いつつ、やはり作家なのだから、超がつくような高級リゾートや高級ホテルの世界、セレブレティの世界にも知見を広め、あまり貧乏くさいのとは縁を切って、作品に昇華してもいいのかな、と思ったりした。
なんとなく憎たらしい話だけど、三冊目も読むかも?

(以前のコメ欄で『そらすこん』を読むと約束していてまだ読んでないので気がかり)