風花 / 川上弘美
以前感想を書いた川上弘美の小説は『真鶴』で、約1年前だった。『風花』は川上氏の出版物として『真鶴』の次作で、タイトルが同じく漢字二字であるあたり、大きく志向が変わったのではない印象で、そこらの安心感を抱きつつ読んだ。
と思ったら、読み出してすぐに『真鶴』とは様相が違うのに気づいた。似ているのは、やたらとどこかへ旅に出るところと、やたらと何かを食べるところで、共通項は多いとはいえ、『真鶴』よりは読者の対象年齢が低い感じだ。といっても、主人公の年齢は32歳なので、特に若いわけではない。けれど考えていることや反応の鈍さや置かれている状況もろもろと、そこから一段一段成長の階梯を昇っていくあたりがジュニア小説にも近いと思った。
話は逸れるがわたしは小中学校の頃ジュニア小説が大好きで、集英社の雑誌『小説ジュニア』を愛読していた。一口にジュニア小説といっても色々なパターンがあり、清純もの、女子同士の友情もの、SFや冒険もの等あるなか、いたってセクシュアルな主題のものもあった。特に有名なのは富島健夫で、この人のジュニア小説では主人公はエロエロな事態に常に巻き込まれる。たとえば友達がよからぬオトコと付き合っているため交際をやめろと忠告するとその友達は、「どうして? 彼はあたしを愛しているのよ」と主張。「愛してなんかいない、あなたは騙されているのよ」と友達思いなため一心に説得する。ところが友達は「ふふふ」と意味深な含み笑いを浮かべる。「ふふふ」とか言われ一瞬ひるんでいると、「彼があたしを愛している証拠があるのよ」とどこか淫靡に言う。いったい愛に証拠とはナンだろう? と焦っていると友達はおもむろに言い出す。
「だって彼はあたしのアソコにキスしてくれたのよ。あんな汚い場所、愛していなくちゃキスできないわ」と。
「あ、あそこ????」あそことはどこかと想像を巡らし青くなったり赤くなったりする主人公。そんな姿を見て、「子どもね…」とバカにした表情を浮べる友達。主人公はもはやグウのネも出ず何も答えられない…
その後あれこれあって、それが愛している証明になるのかどうか、主人公は年上のオトコ友達にわざわざ尋ねるというありえない会話があって…という展開。
しかし、これにはわたしも、あそこにキスすることが愛している証拠になるのかどうなのか随分と考えたものだ。なるのか、ならないのか。
ジュニア小説というのは、ジュニアには答えの出ない、答えの分らない難問が次々に出てくる。
けども、大人になるとそれなりに答えを知ってしまうのでジュニア小説は用がなくなる。
そんなジャンルの小説だ。
『風花』にもちょっとそんなところがある。
タイトルの『風花』は「ふうか」ではなく「かざはな、かざばな」と読み、「晴天時に雪が風に舞うようにちらちらと降ること」を指すそうだ。きれいなタイトルだし、主人公「のゆり」の心情や性格をよく表している…といっていえないこともないながら、もっとズバリと内容を伝えるなら、『スミッコ感満載の女子が、言いたいことを言うための、というかそれ以前に何が言いたいのか自分で把握できるようになるまでのモタモタとじれったい物語』が適当かと思う。
のゆりは、匿名の電話で知らされるまで、夫卓哉の不倫も気づかなかったくらいにマヌケな女子だ。しかし不倫といっても、夫の不倫自体はさして主題ではなく、不倫という世間一般では悪いこととされている事柄が、悪として差し迫ってこない現代的状況の方がより多く描かれる。その理由は、現代社会が多くの縛りを失い、例えばのゆりの両親も卓哉の両親も、それぞれが自分のライフスタイルに基づいて生きているため、家族の制度的な縛りはなく、離婚したけりゃすればいいみたいな浮遊感がある。つまり自由なのだ。その他作品のベースをなすのは、卓哉の不倫相手の里美の、社会の一線でバリバリと生きる女性のテキパキとした高能率ぶりと、のろのろと生産性の低いのゆりの対比だ。のゆりがのろまで鈍いことを、作者は非難しない。いかなる批評も加えない。作者の眼差しは、とりたてて愛情にあふれているわけではないけれど、のろまな女子であるのゆりのいちいちを丹念に描いていく。それは深読みして読むと、この猛烈な勢いで能率優先で進んでいく効率第一主義の現代社会への抵抗のようにも受け取れる。
であるから、わたしも、のゆりのような女子はさほど好きなタイプではないが、応援して読むことになる。
そんな中、のゆりの叔父「真人」の存在が真っ先に気になった。真人はいつものゆりを気にかけている優しい人で、一緒に旅行に行ったりするくらいに親しいのだけど、別にHな関係になるわけではなく、ちゃんと妻も恋人もいる人。しかしこいつは相当に「ガン」だと思った。
こんな優しい叔父さんが側でいつも守っているからのゆりは生長しないし、夫の卓哉も自分の存在理由を失って浮気をする。真人は、おりにつけノコノコのゆりの前に現れては親切をするため「あんたは出てくるな!!」と本に向かってツッコミを入れていた。本当に相手を思うなら、放って置くべきだ。しかし、そんな真人に対しても、作者は淡々と描き非難などはせず、微塵も悪者扱いはしていない。真人のほかにもオトコは現れ、ナントカちゅう男子大学生とのゆりはしばらく付き合い、性的に展開するのか? と思わせつつそうはならず、のゆりのテーマは欲望ではないのがよく分った。
そんな感じでのゆりは、ぐらぐらしながらも健気に日々を暮らし、自分を励まし、少しずつはっきりとものを言い、自立し、成長していく。わたしなどは少なくとも夫婦関係では気に入らないとすぐに激情を撒き散らすタイプなので、なかなかピンとくる話しではなかったが、まあそういう関係もあるんだろうなと思いながら読んだりした。
自立といったがこの小説は、特に女性の自立について何か主張するような要素はまるでない。ないけれど、医療事務の資格を取り、ささやかながら自立していったことが、結果的には、一人を選ばず卓哉ともう一度夫婦としてやっていく方向を選べた要因だ、と思った。味わいとしては、このラストの、えもいわれぬ、なんというか、夫婦の機微。夫婦がともにあることの、何一つ理解しあったわけではなく、愛し合ったわけではなく、許しあったわけでもない、なのに辿り付いた摩訶不思議な境地? とでもいうか。途中、川上氏の小説だから読んでいれば濃厚なせくすしーんが始まるのでは? と考え出し、「考えてみれば、セックスするだけなら誰でもできる。のうこうなソレにいたって初めて、人生のある境地に達した、といえるのではないか? そうだ、きっとそんな感想を抱かせる展開になるんじゃないかな」と予想を立てたのだが、さすがにそれは陳腐だったようで、そんな展開にはならず、作品は、そしてのゆりと卓哉は、もっともっと微妙な地点へと舞い降りた。