引っ越し完了。そして悲夢、あるいは帰れない二人
2008年01月30日
家がほしい。むしろ新築ではなく中古が【日記】
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2009年01月16日
今、家を買うべきか否か【日記】
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と、なんどもなんども取り上げてきた中古住宅購入問題。このたび決着がついて引っ越す事が出来た。
ほんとうに、やっと、やっと出来た、という感じで、「人生でこんなに働いたことない」という日が何昼夜も続いた。
ことに、引っ越しにともなって出た大量のゴミ(約12年間放置していた物物)の処分は、根気と努力を果てなく要求されるものだった。一例を挙げれば、長年捨てるに捨てられず溜め込んでいた子どもの玩具類は、硬質プラスチックと金属を両方使っていることが多く、我が町の分別ルールではプラと金属は別々に分けることになっていて、もしも別けられない場合は金属の方へ出すことになっているのだが、金属ゴミは毎週回収に来るわけではないため、できるだけ出してしまいたくて、切り離そうとすると力づくの格闘になることが多かった。
スターウォーズの「サーベル」などは電池を入れる個所と光る部分(映画ではフォースで光らすから「物質」ではない(?)刃の部分)が収納式のかさばるプラになっていたため、どうにかしてネジ止めを外してプラをどかそうとするも、どうにもこうにもくっついたままで、最後にはカナテコを見つけ出してグイグイグワングワンこじ開けようとするも、これがテコでも開かなくてふざけていた。本当にモウ捨てるときのことも考えて作ってくれっと思う。
それでもまだ子どものオモチャなら可愛いもので、アホアホダンナもといステキなマイダーリンのエロ本にいたってはモウ憤懣やるかたない気分がみなぎった。それらの大群は、紐でしばって捨てようにも、普通に捨てたら背表紙でバレてしまう。わたしはそんなものを平気で日の当たるゴミ置き場に置いておけるほどさばけた女ではないのである。「モーーどうすんのよコレ!」と叫ぶこと二度や三度ではなかった。それでも比較的小型の場合は可燃のゴミ袋に入れてしまえるのであるが、この数が半端ではないため、ゴミ袋が重くなってしまって怪しまれて中を開けられたらどうすんの?と心配になって気の弱いわたしはこれでもうダメ。かといってカバーをはずしてヒモでくくるのも、これまた古本をあさっている人(がたまにいる)に目をつけられそうでダメ。そんなで四苦八苦していたらどんどん憎憎しくなってきて裸女子のマ○コをマジックでモジャモジャにし、鼻の下に夏目漱石ばりの髭を書いて、脇から毛をぼーぼーに長く生やし、ヘソには×のバンソウコウを貼ってやったのであるが、それでも憤懣はおさまらず「お兄ちゃん、すき」とか印刷してある横に「なわけないだろアホタレ!!!」と大書してやった。
それで若干気がおさまったため、本人がいたく大事にしていそうなブツだけは捨てないで置いておいてあげたのだから妻としてはかなり優しい方なのではないだろうか。奥さんによっては、あのレベルのエロ本みたら「離婚」も視野に入るのではなかろうか? 標準値がよく分らないからなんともいえないけども。
これだけでも相当に疲れたが、まだまだ序の口。自分の物を捨てるのもエネルギーがいった。ことに若い頃に書いた日記やイラストはなかなか捨てられないし、自分でやっていた漫研の同人誌は、悩んで悩んで結局捨てられなかった。それでも日記はちょっと中をみて「つまんない」と思ったやつは捨てた。つまらないかつまるかは、年齢によるところがあって、12から19歳の日記は面白いが、20から23まではグダグタしたメリハリのない内面の吐露はつまらない。それ以後だと、育児日記というフォーマットのものは面白いが、夫婦の悩みと子育てノイローゼと近所づきあいの愚痴を変に観念的に書いたやつはつまらない。思うに、悩みや愚痴であっても、一種のサービス精神がないものは、たとえ読むのが自分ひとりだとしてもつまらないものだなと思うのである。
しかし、日記を数冊捨てたからといって、カサがさして減ったわけではなかった。カサがあるもので、引っ越し先では使わないものは多く、三段ベッドやガステーブル、壊れたエアコン、古すぎる洗濯機、使えるけど使いたくない窓型エアコン。三段ベッドには思い出がたくさんあって捨てるに捨てられないでいたけれど、さすがに必要ないから捨てなくてはと思い立ってネットで調べると、処分料3万円とか書いてあって蒼くなった。「どうしよどうしよ」と悩んでいたら、実は我が町の粗大ごみ引取りセンターならわずか1500円で引き取ってくれると分りホッと胸を撫で下ろした。三段ベッドを処分する時は、子どもと記念写真を撮った。子どもはふざけてベッドに手を合わせ南無–と言っていた。
と、この巨大な家具が消えたらさぞかし広々するんだろう思っていたら、上段へ仕舞いこんでいた物物が地上に一挙に降ってきてとんでもなかった。衣類や布団のいるのかいらないのか分らないものやなぜかキャンプ用品や寝袋や扇風機で、しかもホコリまみれなのだからやり切れない。
このあたりで感覚が麻痺しかかっていたので、さほど驚きはせず、たんたんとダンボールに囲まれて暮らした。ほんとうはかなりツライのだけど、合言葉は「早く引っ越したいね」で、新しい家の写真と間取り図を壁に飾って、毎日毎日眺めて、「もうすぐここに住める」と夢見ながら暮らした。
そんなで、今、わたしはここにいる。
わたしの夢は叶った。
わたしの夢見た、出窓のある広いキッチンがある。わたしの夢見た自転車から降りたら「すぐ玄関」がある。わたしの夢見た輝く春の庭–ミモザが咲いてエニシダが咲いて小手毬(コデマリ)の咲く–がある。
なんちゃって庭に関しては、ミモザもエニシダも小手毬も、まだ植えてないからまだ咲いてない…
と思ったら、前の人が植えていったピンクのつつじの横に、よく見ると小手毬が咲いていたので驚いた。ピンクのつつじがあまりにワサワサ繁って栄養を奪っているせいか、花の付きの悪い貧弱な小手毬とはいえ、小手毬は小手毬。まるでわたしの夢を予知したように咲いていて、いろんなことが夢だか現実だか区別がつかなくなった。
夢が叶ったのか、夢の中に入ってしまったのか、どっちか分らない感覚…
夢のことをまだ話すと、右サイドバーに長く『悲夢』のポスターを飾っている。(5/9現在)
日本での公開が2月だったから、映画館へ観に行こうと思ってその頃から貼っているものだ。
けれどこの2ヶ月ほど、前述した通り寸暇を惜しんでゴミと格闘する日々だったし、いろいろな人に会ったり契約したり見積もりしてもらったり交渉したりしなくてはならなくて、精神的にも余裕がなくてどうしても映画館へ行くことが出来なかった。
それはとても残念だったけど、クヨクヨしている暇もなかった。
そしたら先週、岡さんというわたしよりちょっと年上の元同僚がやって来て、「あなた、オダギリジョージの『悲夢』ご覧になった?」と訊くのである。「ジョージじゃなくてジョーだって え? なんで『悲夢』知ってるの? 観たかったけど観れなかったんだよ」と答えると「んふ。じゃあ今度持ってくるわね」となぜかお門違いにウインク、去っていった。
岡さんは、オダギリジョーのことをいつも「オダギリジョージ」と言うためそのたび訂正している相手である。持ち場が変わってからすっかり疎遠になっていたのが、この時期に現れた。もともとは熱心な韓流ファンの彼女だから、韓国映画としての『悲夢』を知ったのだろう。
翌日、岡さんからCDを受け取った。まだ日本ではDVDになっていないと思われるので、韓国版からのコピーかもしれない。どっちにしろ、こんなに早く観れるとは思っていなかった。
新しい家では、わたしの部屋にテレビがある。今度もっといいやつ(32型ワイド)にしようとしているやつだ。何が観たいからというより、ブラウン管テレビではインテリア上格好悪いからである。『悲夢』も、できれば新品の32型ワイドで観たかった。が、それまで待っていられないので観た。
この映画は、二三の意味あいでとても興味深かった。ひとつは、例によってインテリア、という側面だ。自慢じゃないがわたしは、ここ数ヶ月でインテリアへの造詣が格段に深くなった。ひとかどの市井インテリアコーヂネーターと化しているので、床屋さんのカーテン選びくらい出来る自信がある。(白がいいかなァ。ダメ?)
韓国も日本も、もとはイスではなく地面に座る文化であることは以前このブログでも調べた。けれど、韓国を舞台にしたこの映画、あくまでも座るのは「イス」、そして寝るのは「ベッド」であり、きわめて欧米的なライフスタイルとファニチュアを配しつつ、背景には韓国的(と思われる)格子(日本の障子よりもっと複雑な模様)の戸を多用。つまり室内装飾は、日本が、そして韓国も憧れ追随する欧米スタイルを基本としつつ、韓国の美学のアイデンティティは打ち出している。さらに、外へ出れば、日本でもよくみるような寺?が出てきたりして、日韓が共通の文化土台を持つことを示唆している。室内については、自分的に参考になると思ったのは、何かぶら下がっている、という装飾のスタイルで、たとえば「筆」?っぽいものとか、タッセル?みたいのが下がっている。また、思い出のネックレスなんかもぶら下がる。女性の部屋のベッドで使われたバラ模様のサテンは素晴らしい。自分もサテンを使いたいと思った。
もうひとつの意味合いは、夢の力。夢の破壊力。そして夢と現実は、区別など付かないこと。さらに人は、いやでも夢をみてしまうこと。
どんなにガマンしてもガマンしても夢をみてしまう。
☆ ☆ ☆
ということで、『悲夢』の中の二人のように、今わたしは猛烈に眠いので、これから寝ることにする。
『悲夢』のように、わたしが見た夢の通りに、誰かが行動してしまうかもしれない。
わたしが見た夢の通りに、誰かが物思うかもしれない。
わたしが見た夢の通りに、誰かが世界を変えるかもしれない。
☆ ☆ ☆
帰れない二人の部分は後日…