水死 / 大江健三郎

やっと読み終わった…


なんだろうこの激流の川面に放り投げられたようなアップアップした感覚は。
そも、小説とはどんな感想、感情、思考を読後にもたらせば成功と言えるのか?
まったく分からなくなった。けれど少なくともこの読後感は、他のどんな表現物によってもたらされたものとも違う。
読み始めの最初の数日間は、ぜんぜん面白くなくて、何べん放り投げようかと思ったか知れない。
実際そうしている本はたくさんあって、何を隠そうこの著者の本に限っても『二百年の子供』とか『さよなら私の本よ!』とか色々あるのだ。
どうしようやめようか続けようか…と迷っていた数日後に(それはわたしにとってある暗い出来事の後であったが)、読み方を変えてみることをフと思いついた。以下にその思いつきを並べてみたい。

  • 面白い、面白くない、という概念自体が限界に来ている。それは作者の「晩年」のせいというよりも文化その他の成熟による時代のせいなのである。いったん面白いか否かと判断する自分の感覚を捨ててみる
  • この著者は以前からフィクションとノンフィクションを掛け合わせるような手法で書いている。ある時期までは普通に小説を書いていた。しかし、その内容が内容であるがゆえに波紋を呼び、成城の家族にも故郷松山の家族にも、むろん自分自身の生活にも影響を与えてきた。いうなればテキストがリアルを生み凌駕してきたのが、彼の人生である。
  • 小説家は小説を書いている時間が長い。実際的な生活をしている時間よりずっと長い。小説は言葉であり夢である。夢とは夜みる夢であるばかりではなく、実際にあることではないにも関わらずそれ以上に大きな意味をもち自分を支配するものである。
  • 真実とも幻想ともつかないそれらのモノたちと、どう格闘し手なづけるのか。夢が次の夢を、テキストが次のテキストを呼ぶさまを見届けるとともに、そこいらに興味の中心をすえて読んでみよう

とこのように考え出したら、俄然身近なものになって読めるようになってきた。テキストなんてカッコつけた言い方をしなくても単に文章ならばわたしだってこうしてネットの縁(へり)でシコシコと書き綴っているのだから。だから、ほんの少しは心情が理解できる。そこらへんの理解をもっとも強く促すのは「第三部 こんな切れっぱしでわたしはわたしの崩壊をささえてきた」で、タイトルだけですべて言い得てしまっているほどだけどそこを解説すると、著者がここで言う「切れっぱし」とはT・S・エリオットの『荒野』という詩集の最後の方の一節にある言葉。であると同時に著者の現在の心境そのものでもあるもの。ちなみにT・S・エリオットの『荒野』はその翻訳者が西脇順三郎であったり深瀬基寛だったりと定まってはいないもののどっちにしろ、そうして日本語訳されたものと英詩とのサなりズレなりをもって理解してきた、といったことが告白されている。なるほど、原詩のまま理解できたらそれに越したことはないだろうけど、そうはいかずに…ということが、ほとんど今更のように語られている。(それにしてもT・S・エリオットの『荒野』を今Webで読んでみてその狂気のような素晴らしさに感銘を受ける。それまではなぜそんなにも著者が他人の書いた詩に拘泥するのかが謎だったが…。あと『荒野』には「水死」という詩もふくまれている)
わたしがこの本の中で一番感動した部分は上記「こんな切れっぱしで…」だ。が、ウナイコがここで「盛大な涙」を流した理由にいたってはさっぱりピンと来なかった。なぜここで泣く? といってもここの箇所はすでに全編中4/5まできていてすでにして解らないことだらけだったためさほど驚きもしなかった。ウナイコというのは舞台女優で35歳。自分らの芝居に協力させるために長江古義人(ちょうこうこぎと=著者の分身)に近づいた。彼女の芝居は死んだ犬に模したぬいぐるみの投げあいと観客との議論を中心にしたもののようで、わたしなどが考える演劇(見に行ったことないけど)とはおもむきが違う。とはいえ演劇という、夢とリアルの中間にあるような表現形式がここでは重要な役割を果たしている。そのためか実にマコトシヤカに語られているけれど、ウナイコはじめ「穴居人」に該当する人物らは架空の存在である。どうしてそう思うのかというと、大江氏の小説を芝居化しようとしている集団が世の中にあるのか、あるなら何をやっているのかと検索して調べたところ、影も形もなかったから。(一番近くても伊丹十三の『静かな生活』)
どうしてないのだろう? 三島由紀夫原作の芝居ならばやたらとあるのに。
そう考えれば、今まさに崩壊しようとする自分を「切れっぱし」でささえねばならない理由もおぼろに見えてきそう。
だから思わずわたしは思った。「だからあの時文化勲章を受けていればよかったんだよ」と。
深く考えないで、くれるっていうものはもらっとけばよかったじゃんか。ホントバカだよこの人。
もっともそうだったらわたしはこの小説は読んでいない。
(それ以前に書かれていないだろうけど)
小説という大水へ水死覚悟で短艇で船出、あわや殉死するのかと思わせておいて意外にもしぶとい長江古義人もとい大江っちなのかもしれない。なーーんてため口きいてるばやいではないか… そうそう、ため口といえば長江古義人が「○○フェチ」にされた箇所はハラの皮がよじれるほど受けた(○○部分はわたしの自粛伏字)。というか、大江先生の場合「○○フェチ」のような単純で可愛いものではない気がするのだけど。
この小説はあまりにも複雑多岐で、どっちが上流とも下流ともつかない川が時に渦を巻き時に激流となるのでぜんぜん通常のヨミの利かない小説なのであるも、おおきくみっつの主題をもっているように受け止めた。ひとつは天皇、ひとつは女、ひとつは地方である。
また、他の主題のレイヤーでいうと「森々」と「淼々」の読み間違い。他にこういうレイヤーもある、「革命」の革。もちろんまだまだたくさんある。過去の膨大なるテキストの中で、自作から選ばれたのは『みずから我が涙をぬぐいたまう日』で、これが重要な役割を果たすのであるも、わたしはこれを読んだか読んでないか忘れてしまった。けど、どちらでも大差はない(たぶん)。あと、自作以外でいうと、父の残した赤革のトランクに入っていた、そして長い年月のうちトランクの中のものをどんどん処分してしまった長江の母も捨てずに残した「フレイザーの金枝篇』」三冊。わたしは学がないので完璧初耳の書物なため御多分にもれずwikipediaで調べたところ詳しく書いてあったのでうれしくなった。また、日本の文学からは夏目漱石の『こころ』が選ばれている。漱石の『こころ』といえば高校の教科書にも載っていることの多い、おそらく日本人が一番知っている可能性の高い小説。ある意味、これで文学観が育ってしまうため、小説とか文学ってすぐに自殺したり、陰険な人物像を描いたりするもんなんだなとなりかねない小説であり、実のところわたしも『こころ』はBL的観点から「おもしろいよねー」なんて言っていた小説なのだった。しかしBL的にはどうにも生煮えであり、手紙(つまりテキスト)を残して「僕」を雁字搦めにしようとするあたり、隠微なやつであり、ゲイならゲイと告白すればいいんだよとか色々思う。
そんな適当で極私的な解釈でいいのかどうか長年首をかしげていたところ、どうやら長江古義人の、つまりは大江氏の解釈も、わたしと大きく差があるわけでもなさそうだった。ただ、「明治の精神に殉じる」というのがキーになっているのであるも、こればっかりはわたしにとってどう想像力を働かせてもピンとこないため、諦めてしまった。人は、解ることしか解らないのだと開き直るしかないではないか? ちなみにわたしの解釈では(というかわたしの嗜好では)先生は死んでいない。自殺はしなかった。なぜなら、先生は「僕」を愛してしまったから…………… ただ、死ぬと書いてしまった以上、かっこ悪いので表立っては「僕」の側から消えるだろう。この先「僕」の前に現れるとしたら整形しりつを受けた後になる。
フレイザーにしろT・S・エリオットにしろ無知蒙昧なる当方は知らんなぁ…だったけど、『こころ』は知っていたので良かった。
作中、主要舞台のひとつとなる「鞘」(さや)を、ずっとわたしは「蛸」と混同していたため、「たこ」と読んでいて(生き物のタコではなく、どっちというとペンダコとか耳タコのタコ)、けれど途中不審に思ってyahoo辞書で調べたところ、「蛸」ではなく「鞘」で、しかも鞘というのは意味のたくさんある言葉だった。小説内では、この地方において女性器を意味するとし、セクハラのネタにされる場面が出てくるが、辞書でひいても意味は多く24個も用例が載っていた。ひとつは刀を納める、ひとつは喧嘩用語、ひとつは利鞘などの商売用語と、おおむね3パターンある。耳にも目にもキャッチーとは言いがたい「鞘」という言葉を多用するあたり奇妙な印象を生むと同時に、意識すると「鞘」の左に革があることに目がいくことになる。おおお、革だ革だ。あとちょっと本書をためつすがめつ眺めると気づくことであるが、本書自体が「赤革のトランク」そのものなのだ、と思いつかせる装丁になっているところが、紙の書物にこだわっているだけのことはある。こういうの見ると、デジタルブックとかってどうなんだろう? と思わざるを得ない。そういえば昨年当方、ブログ時評☆21世紀に長文を読ませるにはっ【21世紀の小説のために。試しに考えた】という拙文をupし、デジタルテキスト擁護的なことを書いたものであるも、やっぱ紙の書物の方がいいのかなぁ。いや、だとしたら、紙で出版したっていいではないか? 何? 紙ってエコじゃないとか? そういうのではなく、たぶん「流通」の問題なのだろう。流通と再利用のしやすさでいったら、確かにデジタルテキストの方が便利なのであるから。
しかし、今それを考えても結論は出ないのでやめておく。
伯父に強姦されて身篭り靖国神社で吐いてしまったウナイコがそれ以降17年間ずっと考えてきたことの、その集大成としての芝居は、当の伯父らに妨害されて上演できそうもない。しかしこの強姦のシチュエーションは実に奇妙奇天烈なズレがあり、そのズレはあたかも英詩と日本語訳との間のズレのごとく深い断絶を誘う。17歳の女性が伯父に強姦されたにも関わらず、解りやすく憎悪や同情をかう設定にはせず、いろいろと想像させずにはおかない設定なのだ。そして思うのは人が、想像をしないでは生きられないということの罪深さである。想像することが、強姦の被害にしろより深く悲惨なものにしている。想像するということが、よきにつけわるきにつけすべての原点になっている。想像する、ということを誰もが行う。じっさい、この奇妙なシチュは著者の性的想像の産物であり、世の中を見回しても、現在金になって経済を動かしていることの多くはそれら想像に依っているものが多い。性と快楽に依った想像はもちろん、いろいろな形の恐怖感をうむ想像であることも多い。想像が先走ったあげくに今現在を失っていくのだ。いったん、下手な想像はやめてみたらどうなんだ? と思った先からもう想像は始まっている…
☆ ☆ ☆ ☆
Golden_bough.jpg
わたしはいつまでこうやって感想を書くのだろう。
ここまでで5000文字近く書いたけど、まだまだ「天皇」と「地方」については届いていない。
「女」についてすら、たとえばその連帯(これが本作で際立っている)については何も。
話がどんどん脇へ脇へと伸びて、これってまるで金枝ことヤドリギのようじゃない…?
それにしても、今T・S・エリオットのwikipediaを見ていたんだけど、アメリカ人に生まれたのにわざわざイギリスに帰化するなんて、へんな人だなぁ。でもって、<イギリス国教会に入信。「文学では古典主義、政治では王党派、宗教はアングロ・カトリック」と自身を語っている。>というのだから。

有名な「四月は残酷きわまる月(April is the cruellest month)」で始まる長編詩『荒地』で第一次世界大戦後の不安を描きだした。また、評論『伝統と個人の才能』(Tradition and the Individual Talent、1919年)によって、保守主義の思想家としても知られている。この中で、エリオットは「詩人とは表現するべき個性を持たず、特定の表現手段を持つ人で、それは個性ではなく手段であり、その中で印象や経験が特殊な予期せぬ状態で結合する。」と書いている。

読んでいる最中も脇へとそれがちで、たとえばアカリさん。彼は長江古義人の息子で、「脳にデフェクト」をもって生まれた、著者自身の息子の分身なんだけど、その彼がグルダというピアニストを偏愛する、というさりげな一文が入ったために、「誰誰それ?」とYouTubeで調べると、これがすごい早弾きのオッサンですごいのなんの。軽快かつ明快。すばらしい。(そのひとつ) その後しばらくグルダを聴いていたから、自然と時間がかかってしまった。さらに調べるとこのグルダさん、著者とほぼ同世代人である。といっても、グルダ氏の方は数年前に亡くなっている。ここらへんも、著者がことさらに「レイトワーク(=晩年の仕事)」にこだわるゆえんなのかもしれない。それにしても、音楽家が年をとっても音楽を演奏できる限りにおいてカッコイイのに比べ、作家とはなんて分が悪いのだろう。かなり気の毒になるほどである。けれど、小説ならば必ずしも電気がなくてもどこでも、そして末永く読まれる可能性は高い(かもしれない)。

電子書籍版『水死』