SUMMER TIME BLUES
2011年5月17日
2009年5月2日に亡くなった忌野清志郎がその若き日、1988年(当時37才)に作った『SUMMER TIME BLUES』は、明確な反原発のメッセージをもつものとして、23年の時空を超えて今また脚光を浴びている。この脚光、わたしも浴びせている一人で、初めて聴いたわけではないと思うが、しっかりと聴いた記憶がなかった。最近になってYoutubeで何度か聴きかえして、なんというか、清志郎の若さと痩せた体つきと鋭角な顔貌がなんとも格好がよくて、感銘を受けた。
むろん、カナメはそのメッセージにある。当時「37個」も建っていた原発(現在は50基以上)について「電力はあまっている」「いらねー 必要ねー」という認識は、実に正当なものだ。検索して調べると、歌詞に「ベトちゃんドクちゃん」が出てくることをもって批判する人もいて、確かにその部分は感心しない。しかしそれくらいの愚かさは、とんがった行為にはつきものではないだろうか?
今、清志郎が生きていたら、福島第一原発事故後のこの状況を見て何を思い何を言ったんだろう。生前「証明」されることのなかったメッセージの「正しさ」が、こうして証明された。彼は、正しかった。だからといって、欠片も嬉しくはないだろう。この正しさは「証明」されては絶対にいけない正しさだった。永遠の不証明へ向けてメッセージし続けるという、つまり、誰もその正しさを認証してはくれない歌を歌いつづけるという、無償の行為(=ロック)だった。が、原発はそんなものではなかった。ワレワレは詩人ではなくロックンローラーでもないのだから、詩と現実との間の距離を、頭と心をつかって縮めなくてはならなかった。