反/脱原発運動が報道されないことの恐怖
反/脱原発運動が報道されないことの恐怖
うちがとっている東京新聞、「こちら特報部」はネットでも高評価で、たとえば本日の「東電広告費90億円の波紋」はツイッターでも話題になっていたし、「根拠なき『気休め工程表』」は、あれー?フリージャーナリストさんが書いた?と思うような見出し。惜しいのは「希望工程表」と表現しなくちゃいけなかったことで、「気休め」はちょい違う。(つー知る人は知る文脈が生じている)
それはいいとしても、一面にいたっては、ここ数日間、原発事故の振り返り特集になっていて、新聞てのは最新の出来事を報道するもんじゃなかったのか。たとえば今日なら、今日の福島第一原発。今日の福島。今日の野菜。今日の魚貝海藻。今日の海洋汚染。今日の政府。今日の各国の反応。今日の放射線飛散状況。今日の子ども達。今日守らねばならないもの。今日の市民運動。
本当にいったい何をやっているのだとイライラする。
そればかりではない。反/脱原発デモは、4月と5月だけでも数回起きている。しかし、いっかな報道されていない。わたしが参加した4月11日の高円寺のデモは、翌日の東京新聞にごく小さい扱いで載ってはいたが、15000人も集まった東京で起きた出来事を東京新聞のくせにどうしてもっと大々的に報道しないのか。読売新聞の場合は言うまでもなく翌日に確認したら一文字も載っていなかった。しかも、5月7日に渋谷であったデモは、翌日の東京新聞にもぜんぜん載っていなかった。もっとも、NHKはその日15秒だけ報道したとかで、さすがに自分の敷地の隣で起きたことなので無視できなかったらしい、との見解を得た。
お断りしておくが、わたしは載っていなくてがっかりしたとか、「載せて、おねがい」などという事を言いたいわけではない。新聞が載せなくては、存在しなかったことになり、歴史的にも、あるいは国外の人にも、「おとなしい日本人。政府や巨大企業に放射線を多量に浴びせられても文句も言わない」という存在にされなかねないことへ、不快な恐怖を感じている、と言いたいのだ。
正直、別にそれでもいいや、と思う方向への誘惑もある。もう面倒くさいからだ。
それに新聞などの大手メディアには、「それだけの力はない」という、見方もないわけではない。
しかしそれでも感じないではいられないのは、そこまで生殺与奪の権利を握ってしまった新聞メディアって何なのだ? という驚愕。さっきなどは思わず、そもそもいつ新聞なんかできたのかと、「新聞発祥」で検索した。→(明治3年。横浜にて。横浜毎日新聞)
今必要なのは、その生殺与奪の権利を取り返し、今起きていることを報道する権利を、何がなんでも奪還しなくてはならない、とゆうことである。