麻生太郎は結局何が言いたかったのかを、考える
ということで、朝日新聞が文字起こしをした麻生発言をつぶさに読んでみることにします。
僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。
このエピソードは、「正当な選挙で選んでも極悪独裁者は登場する」実例として、民主主義に疑いを差し挟むためによく使われるものです。が、麻生氏はいったいなぜここでそれを出したのでしょうか? わたしとしては、いつまでもドイツ人の過去の過ちを引き合いに出すなんて、ドイツ人もいい迷惑だなあと思うばかりです。これじゃあ、「日本に侵略された」といつまでも謝罪を要求する中国人や韓国人を悪く言えないじゃないですか。
しかし今はそこは置いておきましょう。
そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないといけないところであって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けていますが、その上で、どう運営していくかは、かかって皆さん方が投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持(きょうじ)であったり、そうしたものが最終的に決めていく。
現行憲法をほめているんだか貶(けな)しているんだか、よく分からない事を言っています。しかしここを読む限り貶しては、いない。貶さず、どっちかというと、認めつつ、そういう良い憲法下であっても、ナチスのような事は起きる、という文です。
つまり麻生氏は、「憲法は改正すべき」。そしてそれがどんな憲法であろうと、最終的には議員の「運用の仕方次第」という考えを言っています。
これは、自民党議員~麻生太郎氏を信じる者には通用する理屈ですが、そうでない者にとっては「それが一番不安なんだよ」と言いたい発言です。
私どもは、周りに置かれている状況は、極めて厳しい状況になっていると認識していますから、それなりに予算で対応しておりますし、事実、若い人の意識は、今回の世論調査でも、20代、30代の方が、極めて前向き。一番足りないのは50代、60代。ここに一番多いけど。ここが一番問題なんです。私らから言ったら。なんとなくいい思いをした世代。バブルの時代でいい思いをした世代が、ところが、今の20代、30代は、バブルでいい思いなんて一つもしていないですから。記憶あるときから就職難。記憶のあるときから不況ですよ。
「20代、30代の方が、極めて前向き」との件、何に前向きと言っているのか、「憲法の改正」に前向き。中でも、国防軍の設置など表した9条の改正と推察します。ただ不明なのは、「記憶あるときから就職難。記憶のあるときから不況」とそれがどう結びつくのか。現行憲法のせいで就職難や不況と、言いたいのでしょうか? 謎です。
それにしても、72才の麻生氏、どういう理由で20代、30代に共感しているのでしょうか? 麻生氏の考えと20代、30代の考えがどこかで一致しているから、としか考えられません。それは何か。
たぶん、領土問題です。
この年代(の特に男性)の、領土問題と、日本海を挟んだお隣の国々への関心(おもに敵意)は、なみなみならぬものがあると、わたしは感じています。
これが何を意味するのか?
ひとつは、竹島や尖閣諸島は日本の国土なのだという思い。それを奪おうとする隣国への憎しみ、怒り。
同時に何よりも重要なのは、その思いを共にする者同士の連帯感、仲間意識。
やや脇道にそれていきますが、この下書きます。
今の20代、30代は一貫して、学校によりイジメ(はいけない)教育を受けてきました。
もちろんイジメはいけないのですが、その教育の内実は多分に教師や学校の保身です。
もしも、自分のところでイジメが起き、万一自殺者が出たら、マスコミがやってきて叩きまくって教育委員会ぐるみ批判しまくってさらし者にされて、大変なことになります。
そのため、相手の立場になること、相手がいやがることをしないこと、想像力をもつこと、などなど沢山教え、イジメの芽は早め早めに摘み取ってきました。
しかし人と関われば湧いてくるのは好感情ばかりではありません。どうしようもなく、イヤな感情も湧いてき、ひいては攻撃的になる時もあります。まして集団の心理力学は複雑です。イジメ、自殺はあってはならないことですが、マスコミが騒いでどうこうする問題ではないのです。
親も似ています。
わたしだけかもしれませんが、毎日毎日学校に子どもを送り出す中、自分の子どもが虐められてたらどうしよう。それで自殺したらどうしようと、怖くて怖くてたまりませんでした。
逆に、虐めていたらどうしようとも考えます。その可能性もあり、それも不安です。学校で起きていることはブラックボックスみたいなもので、子どもに聞いてもよくわからないのです。
どちらにしても、薄氷を踏むようにビクビク怯えて生きてきたのが、子育ての10~17年間でした。
今の若い人は、パーフェクトな対人態度を見せる人が多いです。感じの悪い人が、本当に少なくて驚きます。
これもイジメ(はいけない)を含んだ思いやり的な教育の成果かもしれません。
しかしそれだと、子どもが対人関係で持つ、さまざまな感情や欲動のうち、かなりの部分に最初から縛りがかかるため、自身の疎外が生じ、平たく言えばいつまでたっても孤独と不完全燃焼感は解消されません。
しかしながらそう教育されていますから、身近な人間関係はそつなくこなします。
そして、その中で燃焼仕切らない感情の処理、という役割を兼ねつつ、とりあえず無関係な隣国の人間へは憎悪を堂々と持つ。加えて、同様な者同士の心強い連帯感を得ている、のではなかろうかという、そういう推測をしてしまうのです。
以上ここでわたしが言いたいのは、ひたすら9条の堅持を頭ごなしに言っても、抑圧でしかない、ということです。
20代、30代の胸中にあるものと、置かれた状況を真剣に考えて討議していくことが、本当の意味の「平和」を志す道であり、戦争がないことが平和ではない、という、よく言われる言葉です。
この人たちの方が、よほどしゃべっていて現実的。50代、60代、一番頼りないと思う。しゃべっていて。おれたちの世代になると、戦前、戦後の不況を知っているから、結構しゃべる。しかし、そうじゃない。
「しゃべっていて」ということを、繰り返し言う麻生氏ですが、喋っている相手は自民党内部の人と思います。自民党内部の50代、60代だけで判断しているようなのですが、そんなのが判断材料になるんでしょうか。
しつこく言いますけど、そういった意味で、憲法改正は静かに、みんなでもう一度考えてください。どこが問題なのか。きちっと、書いて、おれたちは(自民党憲法改正草案を)作ったよ。べちゃべちゃ、べちゃべちゃ、いろんな意見を何十時間もかけて、作り上げた。そういった思いが、我々にある。
そのときに喧々諤々(けんけんがくがく)、やりあった。30人いようと、40人いようと、極めて静かに対応してきた。自民党の部会で怒鳴りあいもなく。『ちょっと待ってください、違うんじゃないですか』と言うと、『そうか』と。偉い人が『ちょっと待て』と。『しかし、君ね』と、偉かったというべきか、元大臣が、30代の若い当選2回ぐらいの若い国会議員に、『そうか、そういう考え方もあるんだな』ということを聞けるところが、自民党のすごいところだなと。何回か参加してそう思いました。
若い者の意見を古い体質や年功序列型思考で排除するではなく、「憲法改正草案」を作ったと、そこを自慢しているようです。「べちゃべちゃ、べちゃべちゃ」という擬音をなにゆえに使用せねばならないのか不明ですが、彼なりに臨場感を出したのかもしれません。
ぜひ、そういう中で作られた。ぜひ、今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。
問題の、静かに… がこのあたりから始まります。
文章で見る限りにおいては、麻生氏が言いたいのは、一生懸命に作った自慢の改正案なので、自分たちがやったと同じような静けさの中で考えてほしい、話しをしてほしい。と。そのように、受け取れます。
靖国神社の話にしても、静かに参拝すべきなんですよ。騒ぎにするのがおかしいんだって。静かに、お国のために命を投げ出してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。静かに、きちっとお参りすればいい。
何も、戦争に負けた日だけ行くことはない。いろんな日がある。大祭の日だってある。8月15日だけに限っていくから、また話が込み入る。日露戦争に勝った日でも行けって。といったおかげで、えらい物議をかもしたこともありますが。
ここは上記20代、30代の琴線にとりわけ触れそうな箇所です。
ただ「騒ぎにするのがおかしい」か、おかしくないかは、麻生氏が一般人ではない以上、判断は保留しておきます。
僕は4月28日、昭和27年、その日から、今日は日本が独立した日だからと、靖国神社に連れて行かれた。それが、初めて靖国神社に参拝した記憶です。それから今日まで、毎年1回、必ず行っていますが、わーわー騒ぎになったのは、いつからですか。
≪1952年4月28日 – 日本国との平和条約発効により主権回復。日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約発効。日華平和条約締結(8月5日発効)。GHQ廃止。≫via wikipedia
1940年生まれの麻生氏が1952年には誰かに連れられ靖国を参拝している。
お祖父ちゃんのお祖父ちゃんが大久保利通だったりと家柄の特別な方ですから、そういう事もあるでしょう。
ただそれは、あくまでも個人の思い出ではないでしょうか? 思い出は誰にもあります。そういった個人的な思い出を、おおやけの場所で、政治的事柄の説明、根拠として使うのは間違っています。
昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと。憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。
話しの滑り出しでは否定できていたナチスを、ここでは肯定しています。
麻生氏がここで悪のヒーローぶって嘯いたのは「マスコミ」が話しに出てきたから。
マスコミとは、麻生氏にとって、由緒正しい家柄で国の要人であり特別である自分たちに色々と茶々を入れ、行動を制限する、不愉快な連中。
わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。
http://www.asahi.com/politics/update/0801/TKY201307310772.html
気になるのは、麻生氏にとっては、民主主義=マスコミなのだという事です*1。
「僕は民主主義を否定するつもりはまったくありません」と言っているのは、「僕はマスコミを否定するつもりはまったくありません」と言っているのと同義。
確かに血統書付きの家柄の麻生氏を、色々と小馬鹿にしているらしきマスコミですから、民主的に見えなくもありません。
が、そんなのを民主主義、つまりは話し合いで憲法論議をしていきたいと考える、多くの民主的な人々と一緒にするのは、あまりにも視野が狭くないでしょうか。
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そんなこんなで最後まで来たので、要旨をまとめます。
≪僕達が一生懸命に作った「憲法改正草案」を静かに肯定してほしい。静かによく考えれば誰だってこれしかないと思わずにいられない名憲法だから。そして黙って静かにこの憲法に変えるんだ。≫
もしも民主主義を本当に麻生氏が前提としているなら、憲法改正について話し合おうと、一言でも言うはずですが、それはなかったので上のようにまとめました。自民党内部ですでに話し合っているため、その他の話し合いというのは、考えていないようです。
なので、麻生氏肯定の人が言う「憲法改正論議に関しては喧騒の中でやって欲しくない」=「一番言いたいこと」の意味するところが、マスコミの騒ぎではなく、ちゃんと話し合おう。という意味ならば、それは素晴らしいのですが、そういう意味の「喧騒の中でやって欲しくない」とは、思えません。
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