沖で待つ / 絲山秋子 / 文藝春秋2006年3月号

沖で待つ

沖で待つ

去年の12月に職場の図書館で芥川賞(グランドフィナーレ)の載っている文藝春秋を借りて読んだ話は書いた。

それであじをしめたので、またまた仕事中に図書館へいって借りてやろうと、今年も待っていたのであるが、いつまでたっても2月号どまりでかんじんの3月号が棚に並ばない。しびれが切れて「これの3月号、まだですか?」と受付の人に聞いたら、その人は長年のかんじゃさまだったりするのだが、「あーその雑誌は僕が寄付しているんです」と云う。

「えーそうだったんですか。ありがたいです」
「いえ」
「で、あのーいつ頃に?」

「まだ読み終わってないから、読み終わったら、持ってきます」
その時点ですでに4月号は出ている時期なので「おそいなー」と思ったけれど、顔には出さず、ついでだからさりげなく
「よろしくお願いします。ところで、芥川賞はどうでした?」
「僕、芥川賞は読まないから」
「あ、そうですかぁ」

ちゃんちゃん、なのだった。
その後もちょくちょく図書館を覗きに行ったけれど、なかなか棚に並ばないので、仕方なく2月号を借りて帰った日もあった。あんまり読むところがなくて(というかぜんぜん)、持って帰って損だった。

絲山秋子、名前だけは前々からよく聞いていて、『ニート』で女性週刊誌にインタビューされている記事も読んだし、WEBサイトも見たことあるし、ブロガーさんたちの評価もものすごく高い。
けど、読んでつまらなかったときが怖くてなかなか手が出なかった。

「しゃっくりが止まら、ないんだ」

最初の一行で、それが杞憂だったのがわかった。
だからってこの人、最後までしゃっくりをしている人物ってわ、けではない。三ヶ月前に死んでいる故人という変わり者ではあるが。そして「私」の愛する同僚(男)なのだ。といっても、仕事を離れたら何の興味もない相手で、もちろん恋愛感情とは無縁、友達としても共通の話題があるわけではない。
この感覚、よーく分かる。同僚としては親友であり戦友でありものすごく大事な愛情の対象なのに、仕事を離れるとどうでもいいという。それは、作中で「真実は現場にしかない」とあるとおり、真実を共有した仲間だからかと、思う。職場の規則や国の法律に基づいて何枚書類が書かれようと、真実は少しずつ曲げられて都合よく処理できる情報に翻訳される。あまり大きく曲げると問題となるが、どちらにしろ、法律や規則が前提とする条件は、現実に起きる無数の事態の一部しかフォローしていない。真実を知っている人間は、そこにいた人間だけ…

ってちょっと、自分の職場をあてはめてしまったけども、彼らの現場は住宅設備機器メーカーの営業だ。「隅付きロータンクBBT-14802Cと和風便器4AC-9」なんていう記号、SFに出てくる宇宙船の名前みたいでなんとも楽しい。それに仕事の内容が、社会的矛盾をつくためとか、不満や否定的な感情の対象としてではなく丁寧に書いてあって、そのことが、職業や働くことへの肯定感として伝わってきて、気持ちがいい。

後半にいたり、え? と驚く、オフィシャルな顔と個の間の暗い溝、みたいのが出てくる。とって付けた失敗のようであり、作者のテクニックのようでもあり、その件もあらためて詳しく書いてくれないかな、だったり。

思えば、最初から最後までですます調で丁寧に書いてある小説で、「私」自身のことは二の次の体裁なのだ。
まだまだたたけば埃の出そうな「私」なのだった。

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