昨夜みた番組

土曜プレミアム「世界がもし100人の村だったら4」

世間全般と同じくわたしは今日休みだ。さっきコーヒーにトーストを食べたので、おなかもすいていないしくつろいでいる。

朝は6時半に起きた。休日の割には早かったのは子供が部活だからで、朝ご飯を作って送り出した。

子供の朝ごはんには、厚切りのトーストと目玉焼きと「日本サッカー協会認定」と書いてあるミートボールを、6分間ボイルして出した。

時計を見始めるのを忘れたので、6分かどうか分からなくなって少し焦った。
出すとき「日本サッカー協会認定のミートボールだよ」と子供にわざわざ言ったのは、ウケ狙いと一緒に、レトルト物を食べさせる後ろめたさがあったから。
栄養が偏っていたので、豆乳を飲ませることにした。けれど子供は豆乳が嫌いで文句を言うので、わたしは「日本サッカー協会認定の豆乳なんだから飲みなよね」と言うと、子供はぶつぶつ「うそつけ」みたいに言いながらコップ一杯飲んだ。

子供はその後、甘味がほしいのか「チョコレートない?」と言いだした。
チョコレートは昨夜の番組を思い出させた。
番組にはガーナのカカオ農場で酷使される幼い兄弟が出ていて、兄の方はたった一本のボールペンを宝物のようにしている。兄は涙を流して言う。「ぼくは一生ここで働かなくてはならないんだ。せめて弟だけでも学校に行かせてあげたい」
番組には安倍晋三内閣官房長官も出演していて、一緒に見ているのがミソだ。
VTRを見る安倍晋三の顔が時々画面左上に出る。

カカオ農場の子供たちは、まず高い木に登ってカカオの実を切り落とす、カカオの実を割って中身を取り出す、それらを運搬したり、発酵させたり、また運搬したりする。あいた時間にはカカオの木を弱らせないように雑草を中腰で刈り取る。きりもなく次々に働かせられる。
機械化は、ほんのわずかも進んでいなくて、車輪の一個(リヤカーなど)すらなかった。

昨夜はこの番組を見ながら、眉をしかめ苦痛にゆがんだ顔で寝入ったうちの子供も、一夜明ければ「チョコレートない?」と自分の食欲に忠実なのだった。

世界が100人の村だったら、大学の教育を受けるのが1人、自分のパソコンを持つのが2人だという。
しかし、何もみながみな大学に行くことはないだろう。
パソコンの所有ということだって、必ずしもみながみな持つ必要があるだろうか?
(こうやって自分が使っている身となれば、その方が可能性がより広がるし便利さも分かるので持っていないよりは持っている方がいいとは思うが。)

兄弟のうち兄の方は、以前少し学校に行ったことがあって、そこで習ったことを弟に教える。ノートにインクが切れそうなボールペンで54,55,56,57,58,59,60,61,62,63,64と数字を書き並べ、どう発音するのか教える。互いを足したり引いたりする方法を教える。そうすれば答えというものが生まれることも。

それは乾いてひび割れた土に雨が降って潤っていくような感覚かもしれない。

弟は兄のボールペンが欲しくてたまらない。

物欲の原点と知識欲の原点。

答えという解決がこの世にはあって、そのための方法論があるということ。

番組は、「学校に行きたくても行けない不幸な状況」を描くために、どこかを誇張したりごまかしている可能性もないわけではなく、テレビ局のやることはどこまで信用していいのか分からないのだけど、もしも、この兄がほんとうに休日の学校に弟を連れて行ったり、弟に勉強を教えたりしているのなら、この子にとってその感覚、そのよろこびがどんなものなのかを、もっとこちらに伝えてほしかった。

話の角度は変わるけど、番組のスタッフは、それがいかに豊かなものかを本人たちに教えてあげてくれたろうか?
少しでも彼らに自信を与えてくれたろうか? それともテレビのクルーにはそんな能力はないのだろうか? それともそんなものは子供たちには必要ないのだろうか? (ほんとうにどれだか分からない)

視聴者を泣かせるのは、それこそ100人の村にひとりしかいない大学に行った者の特権だろうからそうするとしても、状況の過酷さばかりでなく彼ら自身のこともちゃんと見たのだろうか。

 

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