太陽

『太陽』という映画は、わたしが想像していたのと、まったく違っていた。
想像していたより、はるかに退屈だった。
何度か眠ってしまいそうになった。
作品は、戦争という歴史上もっともドラマチックな出来事を、俯瞰して眺める真似はせず、したがってまったくドラマチックの欠片もなく描き、あくまでも昭和天皇の一日一日のディテールに則して描いている。
また、アメリカ軍が日本本土を襲った空襲も直接には描かず、彼に見えたとしたらこう見えたであろうと思われる描き方で描いている。

一方イッセー尾形は昭和天皇を、ある程度観たら、ほどよく退屈になってしまうくらい、面白さを抑え、かつ過剰に親しみを持たせることなく、可でも不可でもない、目の前にいたらきっとそうであったろう、場合によっては退屈としか思えない人間として演じている。日本人が撮ったら必ず出してしまったと思われる英雄性や神々しさといった幻想は完全に排し、今まで彼が一人芝居で演じてきたタクシー運転手やバーテンやサラリーマンといったそこらへんにいる何の変哲もない人物と同列に演じているのだ。しかもなおかつ、タクシー運転手やバーテンやサラリーマンの場合は、「何の変哲ない人物をこんなに特徴づけて演じてすごいなぁ」という感慨をもたらすわけであるが、それとは反対の意味ですごい演技であるからこれはどう説明したらいいのか分からないややこしい迷路のようなすごさなのである。

そんな風な昭和天皇であるから、映画の最初の方は痛ましかった。
イッセー尾形が、というか昭和天皇が侍従につきまとわれることも、侍従その2に細かいボタンをはめさせることも、自分の口を臭いということも、口をフナみたいにすることも、君達と同じ体をしているんだよと虚しく伝わるはずのない言葉を言うところも、すべてが痛ましく感じられた。

敗戦間近の御前会議で、すさまじい形相で悲痛な訴えをする陸軍の誰かと、昭和天皇のリアクションは、ギャグのつもりなのか? と思わせるくらい笑えそうに描かれ、なおかつ笑わせはしなかったソクーロフはやはりすごい監督なのかもしれない。

本当はもうバカバカしい気分が込み上げくるのだけど、そしてバカバカしさと昭和天皇の痛ましさが均衡状態に陥いるのだけど、この時思い出すのが、この戦争で死んだ多くの人間で、その人たちのために笑えないと思い直すのだ。もしそれがなかったら本当にくだらない連中の茶番なので大笑いしていたはずだが、こんなやつ等のせいで死んだなんていうストーリーにしたくないから我慢するしかないのだ。
ああ、本当になんてやりきれない。

イッセー尾形、というか昭和天皇の作る間合いはとても長くて、何度かウトウトしかけた。
戦争、この時代、昭和天皇、政治、歴史への知識と関心、あるいは思い入れや愛情をわたしよりもっと持った人なら、ウトウトなんかせず、長い間合いの中にそれらのものを共鳴させ、自分独自の映画を心の中に作り上げるだろうと思う。そういう余地をたくさん作っている映画で、観る人によって見えるものの違ってくる映画なのだ。
それに、面白いシーンもけっこうある。
ちょっとしたコントみたいな面白さだ。
それまでのゆっくりしたペースが嘘のように、やけに反射神経のいいコントで面白すぎる。昭和天皇の他の一面というより映画の遊びの部分と考えた方が楽しい。

けどあのマッカーサーは変な頭の形していたなぁ。写真で見たことあるホントのマッカーサーよりヘンテコだった。あの例の、天皇の隣で腰に手なんか当てて態度がデカイと非難された写真。態度デカイも何もホントにガタイがデカイんだからしょうがないじゃんと思ったけど。その腰に手を当ててというの、映画中ではマッカーサーがずっと取っているポーズで、マッカーサーのクセとして表現されていた。
そんなこんなで、天皇は映画中でまったく侮辱的な扱いは受けていないし、相当に右翼的な人が観ても腹を立てる要素はないんじゃないかな? よっぽど偏狭でない限り。

桃井かおり。
桃井かおりが出て来たのは、最後の最後の方。
桃井かおりはイッセー尾形と違って形態模写をする人ではないから、演じる方法論が違うというか、違う世界がやって来たって感じだったかな? それはそれでいいのかもしれない。というのも、映画の全体を通じて意思の通じなさ、というのがすごく感じられて、後半は頭を下げあってばかりいたり、椅子を譲り合ってばかりいる日本人の生態がそのまんま描かれていて。
見ていて、同じ日本人だからそういうやり取りをしている時の内面がよく分かってしまうわけで、意思なんか何も通じ合っていないのに、ともかく共有だけはしているって感じで。
そんな日本人が、面白いけど虚しい。面白くないか。

玉音放送は最後のエンドロールの時に、クラシック音楽の背後でエコーがかかったようにかすかに響いていた。
それは本当に控えめな響き方なので、本当に玉音放送なのか何度も耳をすませた。
画面は焦土で、小さな希望のように鳥が飛んでいて。
そんな中どうしたって思わずにいられなかったのは、「神」から人間になり自由になれたことはよかったけど、なんでまた「神」なんかになってしまったの? そして今はもう本当に「神」ではないの? とか。
焦土が幾分ファンタジックな映像加工をされているせいか、過去とも未来ともつかなくなって、ますます疑問と余韻がふくらんで、このエンドロールの長さでは到底足らなかった。