法と掟と / 宮崎学

法と掟と―頼りにできるのは、「俺」と「俺たち」だけだ!

法と掟と―頼りにできるのは、「俺」と「俺たち」だけだ!

宮崎学、初めて読んだが良い本である。まさに上記の動機をもつわたしにうってつけの本であるばかりか、今まで漠然としていた社会や国に関する疑問が明確になるのと同時に、かなりのところ氷解もした。
それだけに紀伊国屋BookWebにおける紹介文は惜しいと思う。これでは本来得られるべき読者が減ってしまうではないか。曰く

「仲間」から出発すれば、掟が法に優先することがわかる!「社会」とは元々は「仲間」のことだ。
「行動の次元の規範」として内面化される掟は「仲間の絆」の証だ。

という内容のことは実際書いてあるのだが、この宣伝文から受ける印象ほど「仲間」「仲間」と書いてあるわけではない。今の時代、仲間というのは、ドラマの中にはたくさん存在していても、本来この本を読むべきである「ニート」や「引き篭もり」に仲間などそうそう存在しないだろう。第一働いていたり学校に通っている人間にだっているのかどうだか怪しいのが仲間なのだ。「ニート」や「引き篭もり」は疎外感も手伝ってなおさらこの宣伝文で敬遠してしまうかもしれないし、だとしたらとても勿体ないと思う。あと念のために付け足すと、働いていたり学校に通っている人も当然読者対象だ。

強い個別社会を内部に抱えるヨーロッパ諸国とは対照的に、仲間社会をつぶして近代化してきた日本では、国家が社会を吸収し、法と掟が癒着し、法でも掟でもない曖昧で流動的な「規範のようなもの」がはびこっている。

第1部 日本人の規範感覚のどこがどうおかしいのか?(アウトローは法を軽視するか?いや、アウトローこそ法を重視する;アウトローが行く法の裏道は営業上の秘密である;コストパフォーマンスこそがアウトローが法律を測る基準なのだ ほか)
第2部 近代日本の法と掟は、どこがどう歪んでしまったのか?(法も掟も、どちらも社会規範である;掟は個別社会の規範、法は全体社会の規範である;法は国家を通じて制定される特殊な社会規範である ほか)
第3部 法と掟の彼方(近代国家が黄昏を迎えた;国家より大きな単位と小さな単位が重要な意味をもちはじめた;掟の世界が法の枠を超えて結びつく ほか)

以上は目次をそのまま引用なので仕方がないが、ここでいう「掟」は本文を読んでみないことには正体のつかみにくいものだ。わたしとしては、第二部にある「現場で事実の世界をになっていた中間集団が事実の世界から離脱しつつある」に関して、わたしの現場で起きている現象(離脱による空洞化)を、機会があれば紹介したいと思う。このことに関して「何か変だな」という気持ちはあったが、正体が分らないでいたのが、この本によってハッキリしたのが、とても知的にエキサイティングでもあり楽しかった。
それもこれもこの国の、国民は公に奉仕するもの、規律を守るのが国民のつとめ、のような倒錯した法意識(いや、すでにそれが倒錯であるという意識すらないほどの徹底的に日本人だった自分なのだが)に基づくもので、そうしてどんどん権力と権限を拡大していく現場を知らない官僚に判断をゆだね、個々の人間は思考放棄していく。いわば国の作り出したバーチャル空間を浮遊するだけの存在になっていく。これはもうゲーム脳どころではないオソロシサで、しかもゲーム脳は科学的に否定されているが、こちらは事実としてバーチャルに侵食されていっている、という実感がある。

これからいったい何がどうなるのか、自分はどうなるのか。
例によって、優秀な人は日本の外に出て行って能力を開花したりする、という話だろうか。
そしてそこそこしか優秀でなく、金もぜんぜんない人は、安倍晋三のアホアホ政策の下で、バカにバカ扱いされたままドレイのように生きるしかないのだろうか。

つづく…鴨