アイの物語 / 山本弘
- 作者: 山本弘,李夏紀
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2006/05/31
- メディア: 単行本
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ネットを徘徊していてみつけた本。『SFが読みたい!2007年版』(SFマガジン編集部編)の第2位作品だそうだ。2位ということは相当に面白いのだろう、と見当がつくが、SFというジャンルなので不安だった。わたしも若い頃はヴォネガットやブラッドベリやハインラインやディックやらを読んだことは読んだが、あれらのSFはいわば第一世代のSFで(厳密にはジュールベルヌやH.G.ウェルズやフランケンシュタインのメアリー・シェリー等が第一か?)、SF創世記であるから、現実世界を直接舞台にしたり、現実世界からヒントを得たり、現実世界で使っている言葉を用いて表現されていた。だから、基本的に誰でもとっかかれるし、特に専門知識などなくても楽しめたと思う。しかし、だんだんと時代が下ってSFの作り手が、第二、第三世代になるにつれ、自分が親しんできたSF世界が現実以上にリアルな場となり、なおかつツマラナイ現実などよりはよほど楽しいために、そこを足場にして表現していった(かな?と思う)。
そうなると、SFに相当に詳しくないと分らない用語や世界観などが出てくるため、なかなかついていけない。もしくは、ついていけないのじゃないかという、警戒感が生まれる。
といっても、どれくらいなら「SFの専門知識」といえるのか、その定義も難しく、たとえば「ワープ(航法)」はどうなのか? わたしの場合は、「宇宙戦艦ヤマト」で知ったのが初めてだったけれど、ワープくらいなら誰でも知っているのではないか。ちなみに「宇宙戦艦ヤマト」が流行っていた、わたしが高校生の頃の物理の先生、頭の形がにんにくに似ているため「にんにくまん」と呼ばれていたのだが、にんにくまんが、カンカンになって言うのだ。
「お前らなーっ 光より速いものはないんだっ 絶対に光速を超えることはできないっ ワープなんて出鱈目だー!」
広大な宇宙空間に比して、人間の寿命は極端に短い。光速を超えなきゃたいして遠くまで行けないからフィクションとして編み出されのだろうに、まったく、器の小さいやつである。おそらく、自分が信じてきた物理の法則がコケにされた気がして拒否反応が起きたのだろうけど。
ワープの他に知名度が高そうなのは、タイムトラベルやタイムマシンで、とうに一般常識だろう。スタートレックではごく当たり前に出てくる「転送」はどうだろうか。ちなみに、アメリカの人気テレビシリーズ「スタートレックネクストジェネレーション」(1987-1994)では本物の科学者がスクリプトに関わっているそうだが、ワープは必ずしも不可能とはしていないそうだ。しかし、「転送はちょっと無理。あれだけは無理」と言っているそう。多分理屈は、分子レベルに分解してから転送先で再構成、みたいなことで、相当に無理そうではあるものの、転送機能がなかったらアドベンチャーの規模はかなり小さくなる。(普通の服で真空の宇宙をすっとばして地上に着けるんだもんね。超便利)
そんなこんなで、ワープや転送程度ならばいいけど、もっとマニアックなことが書いてあったら読めないなぁという、不安の中を、最初の数ページはさまよった。結論から言えば、読み終わったが。
これが文学みたいのだったらもっと面白かったろうけれど、文学みたいのを書いている人間でこういう世界を書ける人っていないんだろう。
エンターテイメント作品とはいえ、独特の疲れに襲われ、休み休み読んだ。
たぶん、人間への絶望感のようなものが、ひしひしと込み上げてヘトヘトになったのだと思う。
だからといって作品のトーンは暗くはなく、印象としては、難しい理屈をキャラが喋る、絵柄の華やかな人気アニメ、といったところ。だからといってそのスジの、分る人にだけ分るマニアな作品にならない注意深さが感じられ、7つの短編作品と、それをある深い理由によって語って聞かせるアンドロイド、という構成の中、特に「詩音が来た日」などは、SFに馴染みのない「一般読者」に親しめる内容になっている。ネットで見たところ、作者の奥さんが介護系で働いていたそうで、その体験談を聞きながら書いたそうだ。わたし自身、詩音とほぼ同じ「介護」の世界にいるが、違和感なく楽しめた。それでも物足りなさを感じるのは、介護で働く人間も、そして介護される側の人間も、その心理はもっと微妙で、もっと複雑に絡み合う要素があるからで、それを書いてくれたらな、という欲が芽生えたせいだ。そんなことはこのジャンルの小説に望むことではないと知っていても。
詩音はアンドロイドだ。そして、アンドロイドがもしもこの社会に浸透することがあるとすれば、確かにこういう成り行きでだろうと、思わせる強い説得力があった。人間同士なら超えることのできない壁を越えたアンドロイドの正しさに少し打ちのめされた。面白いがけっこうヘコタレル。ただ思うのは、物語を物語る物語を作者は物語ったわけだが、ここに書かれたアンドロイドも書かれた存在としての人間だと思うのだ。
オリヴァー サックスが何かの本に、「スタートレックネクストジェネレーション」に出てくる主要キャラでありアンドロイドであるデータに、自分を投影する人間が多いのに驚く、と書いていた。人間のように感じ、人間のように喜び、人間のように悲しむことがどうしても出来ない、どうすれば人間らしくなれるのかという苦しみをもつ人間は多い、というのだ。オリヴァー サックスが出会ったのは、患者的な立場の人達と思うが、普通に暮らしている人間にもいるのではないだろうか、わたしはけっこういると思う。
最終話の「アイの物語」は、「詩音が来た日」とは違う意味で力作で、なーーる、こうやればAI(PAIではなく、意識をもつTAI)って作れるんだな、と割りと簡単に出来そうな気になった。具体的には、さまざまなデータを何億でも何十億でもインプットしたり、ネットでバーチャルなキャラとしてゲームを戦わせたり、さらにオンラインの人間や他のAIとたくさん会話をして交流する。ただしそれだけではダメで、「スランカーネル」が必要だ。「スランカーネル」は人間の生体システムを模してプログラム化したもので、肉体という現実があってこそ心が成り立つヒトを極限まで真似したフリーのソフトウェアである。なんだか、理論だけ聞いているとさほど難しくなさそうなので、すぐにも自分もソフトをダウンロードしてAIを作れそう。
そんな風にTAIは、ネットで成長させるのがミソで、現実(作中の「レイヤー0」)に存在させること自体は、技術が発達して人工皮膚に包まれたボディが開発された後で充分。肉体よりもまず意識だ。
もしも、そんな技術がソフト化されて、誰でも好きなアンドロイドを持てるようになったら、どんなコ作ろうかなーと、夢が膨らむ。顔は××に似ていて、声は○○に似ていて、性格はこうでああで、Hなことばかりしそうな自分が怖い☆●~* ))))….というか、この段階ではまだ肉体はないのだった。肉体を持ったら、眼差しには特にこだわりたい。少なくとも50種類くらいのパターンを作って、その中でも、わたしをみつめる時の優しくてあたたかくて、でも時に猛々しくて、とにかくそういう時の目と、それ以外の時の目をぜったいに別々のバージョンにしなくては。
と、妄想におぼれてしまったが、大丈夫、『アイの物語』はそんな浮かれた話ではなく、物語としての完成度の高さは、最後まで読んで「おおーー」と感歎の声をあげるほど。ただし、エピローグで物語を礼賛しすぎなのはどうだろう。ヒトにも色々あって、必ずしも物語の快楽に脳の機能が適応していないヒトも多い。そのかわりに音や音楽のための部位が発達していたりする。もちろん、エピローグまで読みきったこの本の読者は、物語派である率が高いとはいえ。
なんていう些事は置いておいても、最近わたしにも(日々のsukimaなんか書いているせいか)、マスコミに一方的に与えられるニュース以外のニュースを見る機会が増え、ヒトの不条理(多くは「ゲドシールド」に由来する☆)に衝撃を受けることが多い。
ヒトこそブレイクスルーが必要だ。もしも今、ヒトのやることなすことに馴染めず、自分をアンドロイドのように感じている人がいるとしたら、逆にそれは希望かも、と思う。